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これは――キスされるな、と経験豊富な穂積にはわかっていた。穂積は彼の上司として、そこで話題を――空気を変えるべきだった。
しかしその夜の穂積は失恋の痛手も大きく、これから会う昔の男は妻と別れる気もなく――。
穂積は目を伏せた。閉じたわけではない。こうすれば、長いまつ毛がいっそう強調されて、目の前の相手に――男にどう見えるのか、熟知していた。
井上が動く気配がした。井上の男らしい顔が、近づいてくるのがわかった。
穂積は止めなかった。軽く顎を上げ――目を閉じた。
唇に、見た目より柔らかい唇が重ねられる。
触れるだけのキス。しかし思った以上に、穂積の胸は高鳴った。
厚めの唇は、柔らかくてサラッとしていて――気持ち良かった。
井上が、弾かれるように唇を離した。我に返ったのだろう。
「……わぁああ! す、すいません!」
井上は目を白黒させ、慌てふためいていた。
「お、俺は……なんてことを……」
「……井上さん」
飲みすぎですよ、と笑って軽く諌めようとしたのに、井上はもう穂積の話を聞いていなかった。
「すいません! ああっ……俺はとうとうやっちまった! いくら嫁に構ってもらえないからって……まさかこの俺が、ほんとに……ゲス不倫しちまうなんて!」
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