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「部長、申し訳ないんですが……食事はまた今度にしてください。いえ、仕事は終わったんですが……思ったより立てこんで、ちょっと……疲れました」
なぜか穂積は、今から吉田に会いに――抱かれに行く気分ではなくなった。
乾いた唇を指でなぞりながら、吉田に詫びる。吉田は残念そうにしていたが、どうせこの後、銀座にでも出かけるのだろう。
適当に断って、吉田との電話を切った。
星など一個も見えない明るい夜空を見上げる。
今夜だけは――井上のキスを誰にも上書きされたくなかった。
こんなのはただの気の迷いだ。よく知る部下が飲み過ぎて、悪ふざけに付き合わされたのだ。もしくは、自分が失恋した鬱憤晴らしに、人の好い部下を巻き込んだだけだ。
きれいな目だと、褒めてくれた時の井上が、知らない男に見えたのは――気のせいだ。
可愛いと言ってくれた井上の声が――穏やかで甘く感じたのなんて、疲れた耳の異常だ。
唇の厚い、男らしい横顔に見惚れたことなんて――明日にはきっと、忘れている。
寂しさと切なさと――ほんの少しの甘みを感じながら、穂積は数週間ぶりに自宅に帰宅した。
明日からまた、いつもの顔で井上と会えると信じて――。
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