その一

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その一

宗助は心優しい男だが、何しろ口下手だ。 人と面と向かえば緊張してしまい、途端に喉がつかえたようになって言葉が出て来ない。相手が女となれば、尚更だ。しどろもどろに喋る宗助を、女たちは小馬鹿にして笑って去って行く。 流行頭の短髪に、船頭で鍛えた長身の体躯。見た目はそこそこの美丈夫だが、そういうわけで齢二十になっても未だ嫁のなり手どころか、親しい友人もいない。 それでも宗助は、自分の今の生活に満足していた。 一日中渡し船の船頭をしてれば食うことには困らないし、長屋に帰れば愛猫のミケが待っている。「にゃおん」とすり寄ってくるミケを撫でながら月夜を眺め、雇い主のじいさんに貰ったラムネを酒がわりに晩酌をするのが宗助の至福のひと時だ。このひと時さえあれば、もう何もいらないとすら思っている。 とにもかくにも、無欲な男なのだ。女を買いに行くこともないし、酒にも興味がないし、博打を打つこともない。巷の人間が騒いでいる、凌雲閣(りょううんかく)なる場所にも、”えれべえたあ”なる代物にも興味がない。 猫とラムネと黄色い月。 毎日必死に船を漕ぐ宗助の頭にあるのは、そのことだけだ。
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