その三

1/5
前へ
/14ページ
次へ

その三

三日目。福は、今度は金町から人車鉄道に乗りたいと言い出した。帝釈人車鉄道は帝釈天詣でのために考案されたもので、金町駅から出る箱型の列車を男どもがうんせうんせと押していく人力列車だ。 「なんだって、そんなものに乗りたいんだ」 「帝釈天にお参りに行ったこともないような女は、殿方に呆れられるでしょう?」 「何も、わざわざ金町から行かなくてももいいだろ?」 宗助の長屋は帝釈天にほど近い。それをわざわざ金町まで行って人車鉄道に乗るなどとは、馬鹿馬鹿しいにもほどがある。 「口答えするなら、ここで叫びますよ? わたしに惚れた男どもの中にどうやらやくざ者もいるようですが、知ってはりましたか?」 相変わらず、性悪な女である。だが姿形だけは、うっとりとするほどにかわいらしい。時々飛び出す京都弁も、妙に男心をくすぐる。 ――絶対に、惚れてなるものか。 昨日にも増して決意を固めつつ、宗助は福とともに金町駅へと向かった。 実のところ、宗助は帝釈人車鉄道に縁がある。 宗助の父は、昔ここで列車の押人をしていた。それを知った宗助は幼いながらに足げく金町に通った。『列車好きの小童』と呼んで父も宗助を可愛がり、無償で列車に何度も乗せてくれたものの、父は宗助が自分の息子だとは気づかないままある日突然死んでしまった。 きっと父は、自分に息子がいることすら知らなかったのだと思う。宗助の母は吉原の遊女で、父はその馴染みの客だった。父に迷惑がかからないようにと母は宗助の存在をひた隠し、宗助にも口止めをした。そんな母も、父が亡くなって間もなくして病気で死んだ。 ひょんな失敗から生まれてしまった宗助は母の親戚筋に預けられ、齢十二で家を飛び出す。 何にも執着を抱かない性格になってしまったのは、きっと愛情を知らずに育ったからだろう。 だが金町で押人をしていた父の掌の分厚さやたくましい背中を思い出せば、胸の奥に熱い何かが込み上げる。その不思議な感情から、宗助は目を背けて生きてきた。 それをこんな珍妙な事件をきっかけに、思い出すことになるなんて。
/14ページ

最初のコメントを投稿しよう!

7人が本棚に入れています
本棚に追加