その一

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三日目の晩。さすがの宗助も、疲れ果てよれよれになって長屋に戻った。 無意味に江戸川を往復しているあの客達は、何なんだ。しかもどいつもこいつも、鼻の下を伸ばしてだらしない顔をしてやがる。 「にゃおん」 ふらりと板間に腰を降ろした宗助のもとへ、猫のミケがすり寄ってきた。片手には、今日も雇い主に貰ったラムネの瓶。窓からは、黄色い月が覗いていた。 まあいいか。どんなに忙しくても、毎夜この瞬間が訪れればそれでいい。 どこまでも無欲な宗助は気持ちを切り替えると、ミケを抱きかかえラムネの蓋に手を掛けた。 ところが。 ――ドンドンドン! 長屋の入り口を、乱暴に叩くものがいる。 さすがの宗助も舌打ち混じりに戸を開け、そしてぎょっと目を見開いた。 そこにいたのは、知っている面々ばかりだった。火消しの親父に油屋のじいさん、それから煎餅屋の主など、ざっと見渡しても六・七人はいる。それも、ここ数日無意味に宗助の渡し船で江戸川を往来している輩ばかりだ。 「おい、宗助。お前なら知ってるんだろ? あの子は何者なんだ」 猫を抱えたままの宗助のもとへ、煎餅屋の主がにじり寄る。 「……あの子?」 「お前の舟にいつも乗ってる、あの子だよ。まるで牡丹のように、かわいらしい子」 一様に、うっとりと鼻の下を伸ばしだす男たち。 「俺たちは、あの子のことが気になって仕方ないんだ。だけどここいらじゃ見かけない顔だし、素性ってものがてんで分からねえ。おまけにあの子、話しかけても何も答えちゃくれないんだ」 どうやら男たちは、揃いも揃ってその”あの子”とやらにホの字らしい。なるほど、それであの子に会いたいがために俺の舟に無意味に乗っていたのか、と宗助は納得した。だが肝心の”あの子”とやらに、宗助は全く見覚えがない。いつも舟に乗っていれば普通は気づくものだが、もとより人には無関心な男なのだ。
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