その二

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翌日、福は上野の不忍池にある競馬場に行きたいと言い出した。 「殿方たるもの、きっと競馬がお好きでしょう。お勉強しておかないと」 にっこりと微笑む福は、昨日の去り際の毒女っぷりが嘘のようにかわいらしかった。 ところが、これがまた悪夢の一日のはじまりとなる。 上野までは列車の本数が少なく、その上例によって福の恋煩いに犯された男どもがどっと乗り込んだものだから、あえなく列車は故障し運行不能の状態になった。 「されば、歩けばいいだけの話です」 全てが自分のせいだというのに、どこまでも前向きな福。 そういうわけで上野まで頑張って歩いたはいいものの、気づけば二人の背後には福に惚れた輩どもがぞろぞろと続いていた。街を往来する大行列に祭りかと辺りの人間たちも騒ぎ立て、どんちゃん騒ぎが巻き起こる。 警察は来るし新聞記者も押し寄せるしで、あたりはもう大変な騒ぎ。どうにかこうにか不忍池競馬場まで辿り着きはしたが、今度は競走馬までもが福に一目惚れし場内で暴れ出す始末。 客席にものすごい勢いで駆けてくる競走馬たちを恐れ客が一斉に逃げ出したものだから、競馬場はあっというまに大混乱の渦に巻き込まれる。 あちこちで乱闘騒ぎが起こり馬は逃げ出し、競馬場の至るところが破損した。 恋煩いというのは、なんと恐ろしいものだろう。 人を狂わせ、正気を失わせる。ひょっとすると、流行の病などよりもよっぽどか恐ろしいかもしれない。 上野から深川へと歩いて逃げ帰りつつ、隣を行く涼しい顔の福を見やりながら、今さらのように宗助はそんなことを思う。 宗助の視線に気づいた福が、恥じらうように微笑んだ。頭に刺した牡丹色の簪と同じ色に頬を染めて、上目遣いに宗助を見やる。 どきり、と宗助の胸の奥が鳴った。 ――惚れては、ならねえ。 身の破滅を招くのはごめんだ。その上、彼女には想い人がいる。叶わぬ恋に、身を落としたくはない。
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