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かなり掠れた声だ。仕方ない、とフィネガンは腰に下げた袋からオレンジ色の果実を取りだし、ナイフで切った。じわりと浮かぶ果汁を口の中に向けて搾ってやると、男はむせながらもなんとかそれを飲み込んだ。
「ありがと……ござい、ます」
「本当なら貴重な水分だが、あんたの船が沈没したお陰で、水の入った木箱が流れ着いたからな。お互いラッキーってことだ」
フィネガンが漂着物を示すと、男はそれらをぼうっと見つめた。
「僕の……船」
「あぁ。ま、船は残念だったが、魔女の歌には誰も逆らえないわな」
「えっと……すみません。あの、魔女?」
「違うのか? 昨日の、セイレーンの歌で起きた嵐に巻き込まれたんかと思ったんだが」
「えっと……」
フィネガンの言葉に、男はゆっくりと上体を起こしながら、呆けた目を宙に巡らせた。
「……すみません。なんだか、ぼおっとしていて……頭の中が、真っ白と言うか」
「まぁ、今の今まで気絶してたかんな。あれだけの嵐に巻き込まれて、生きてる方が奇跡ってもんだ。ちょいとぼんやりするくらい、そりゃ」
「あ、違うんです。いえ、違わないのですが……」
言葉を探すように、男は頭を押さえながら唸る。
「その。本当に……頭の中が真っ白で。あの。思い……出せないんです。何も」
「ほぉ」
余った果実をかじりながら、フィネガンは頷いた。男はつかえながらも言葉を続ける。
「つまり、その。何で船に乗っていたのかや、何が起きたのか、とかや……そもそも」
眉を寄せながら、ぶんぶんと頭を振り。そして深い溜め息をついた。
「……僕が、誰なのか、とか」
「……ふぅん」
ちらりと、男の指にはまっている指輪を見る。そして少しだけ黙り込み。フィネガンは青い顔をした男の肩に手を置いた。
「あー……残念だがまぁ、そういうこともあるだろうさ。だがな、見ろ」
そう、芝居がかった動きで周囲に手を巡らせると、男は素直に従った。
「何も……ありませんが」
「そう、何もないな」
大きく頷き、男に笑いかける。 わざとらしい笑顔だと、我ながら思いつつ。
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