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 祖父はその人を八百重(やおえ)と呼んでいた。美しい人だった。  明らかに人の容をとったその人は、永きを生きる半人半魚の身であるという。それは俄かに信じられないおとぎ話のようであったが、初めてその人と引き合わされた時のことを長尾(ながお)正義(まさよし)は確かに覚えている。  畳の目が刻まれるほどの低頭から述べられる挨拶は低く響き、その愛らしいかんばせの上に零れ掛かる長い髪は、ぞっとするほどに白かった。  線香の交じったイグサの匂いと、美しい人。  今年も巡ってきた、一人きりの夏が終わろうとしている。 「ただいま帰りました」 鞄を小脇に勝手口から声を掛ける正義の習慣は、幼いころから大人になった今まで変わらない。そんな時必ず割烹着で濡れた手を拭きふき出迎えに現れる八百重の容貌もまた何十年と変わらないのは実に奇妙なことであったが、もはや幾十回めの夏をその人と共に迎える正義にとって大した問題ではなかった。  温かい明かりを灯す台所には何者の気配も感じられない。火の付いていないコンロに掛けられた鍋を開けてみると、味噌汁の中に豆腐と葱が静かに浮かんでいた。 「八百さん、いませんか」果たして返事はなかった。そんな時は大抵祖父である源吾と共に何かくだらぬことをしているに違いないので、正義は無意識に形の良い太い眉を寄せ、小声で付け足した。「……祖父さん」 炊飯器が蒸気を吹き出す音の遠くに、正義の耳は微かな連続音を聞き取る。それは祖父の気に入りのレコードのそれによく似ていた。 縁側だ。いよいよ舌打ちを漏らしそうになり、堪える。裏へ回ろうと再び革靴に爪先を入 この地方の夏は短い。代わりに冬は長く、毎年の大雪も何十回と繰り返すうちに当たり前のものとなっていった。大きすぎもせず決して小さくもない自宅の裏には山があり、正義は幼いころより祖父に連れられて何度も通った。さらに足を延ばせば静かな浜に出るが、近頃はあまり流行っていないようだった。都会の洗練された快適さからは遠い暮らしではあったが、若い正義はこの時代錯誤の風情を気に入っていた。
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