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「八百重さん、今年はトンボが飛ぶのが早いねえ」 夏の盛り。正義はプラスチックの虫かごを斜めに下げた八百重を伴い、虫取り網をやみくもに振り回した幼い夏を思い出す。言われてみれば色を変える夕暮れの中にちらほらと飛び交うものがあった。縁側で延々と回されるままになっているLPプレーヤーのクラシック音楽に懐古の情が誘われるのは、なぜだろう。 「そら、じっとして。八百重さんの髪に止まるぞ」 「いや。怖いです」 「怖いものか……」祖父がからからと笑う。本当は八百重が虫など恐れないことは正義もよく知っていた。  甘い会話を立ち聞くうちに、いつしか汗に濡れた背中にシャツが張り付いていた。不快であった。一歩踏み込んだ小さな世界に汗の香りが混じる。 八百重の上に暗く落ちた正義の影に怯えたのか、虫は側頭から慌てて飛び立った。ああ、と老人から残念そうな声が上がる。並んで腰を掛けたその人はさして興味も無さげにそれを見送って、たった今この若旦那に気が付いたとばかりの微笑みをとろりと正義に向けた。 「おかえりなさい」 「よく帰って来たな」 次いでいまだに顎をしゃくる形のまま固定されている顔で源吾が正義を歓迎した。老人の澄んだ目が自分を捉えたのち傍らの八百重に流れたのを、正義は見逃さない。 祖父とその人は愛し合っているのかもしれない。 幼くして両親と死に別れた赤子を一人の男に育て上げたのも、その赤子に大仰な名を与えたのもまた祖父の源吾であった。故に正義は祖父に対し相応の恩は感じているつもりだが、それだけにいくら背伸びをしたところでこの男には手が届かない現状が口惜しくも感じられた。若い正義には、この狭い田舎で源吾を中心に世界が広がっているように思えてならない。正義はこの異類に愛された好々爺に対して感じるそれの名を劣等感と認められるほど、大人ではなかった。 否、同じ屋根の下で繰り広げられる美しい八百重といけ好かない老人の睦事をみすみす認められるほどの大人にはなれない。反吐が出るほどくしゃくしゃの笑顔を貼り付けて、正義は二度繰り返した。 「ただいま帰りました」
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