42人が本棚に入れています
本棚に追加
「安徳工機の人事の鉄則は、ローンを組んだら即転勤、即出向。サラリーマンにとって配置転換は付き物や、ずっと自宅に住める幸運な者もいれば、家を買った瞬間に出向の対象になり、家族と一緒に暮らすことも出来ずサラリーマン生活を終える者もいる。悲しいかな、家を買うほどの安定した収入を得られる三十代後半位が、一番配転に適しているのじゃ。三十も後半に差し掛かれば転職の恐れはないし、会社に文句が言えんようになるから、バンバン転勤させるし、バンバン出向もさせる」
大企業の人事ほど興味を惹くものはない。辞令交付前ともなると、やれ、誰が飛ばされただの、誰が降格したなどと、ネガティブな噂が飛び交うものである。
特に、配置転換を伴う辞令には、社員皆が戦々恐々とその行末を伺っており、子会社への出向、地方への転勤を言い渡された日には、阿鼻叫喚の雨霰が吹き荒れるのだ。
ジョーは、人事部長たる、人事を司る役職の中でも最高位におり、その匙加減ひとつで社員の運命を変えることが出来てしまう。
「我社の場合、岐阜に本店工場があるから、岐阜に家を買うのが賢明だが、中には洒落た欲を出して、本社のある横浜に家を建てよる社員もおる。安定して本社勤務が出来るのは、役員か人事裁量権を握る部長級以上で、一般従業員など岐阜に家を建て、老後も岐阜で余生を過ごし、岐阜に墓を買い、大半は岐阜で死んでいくのじゃ」
テレビ画面からは、野球中継が延びたことにより、後続のバラエティ番組が中止になった知らせが報じられた。
十時を過ぎた野毛小路は、千鳥足で街中を彷徨う酔者の姿も目立ち始めた。
「そもそも、何故、ローンを組んだ瞬間に僻地に飛ばすんでしょうか?」
掛布は、一連の城山節を聞いた後、素朴に問うた。
「家族と過ごす時間が減ってしまうし、だいいち住宅を買った直後に転勤など、従業員にとってみれば地獄じゃないですか」
「アホんだら! そんなことも分からんのか。貴様、何年人事部におるのや」
掛布は、酔いの回った頭で指折り数えた。かれこれ、人事畠十五年に差し掛かる。
最初のコメントを投稿しよう!