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人気のない二階の事務部屋に入ると、楠本は窓際の自分の席で厳しい顔をして座っていた。総務課の電気は消されており、楠本の周りだけが浮かび上がるように経理課の電気が点いている。
「お疲れ。どうした?」
「お疲れ様です、杉山さん」
楠本の隣まで行き、椅子を引いて勝手に腰掛けた。楠本の机の上には鏡とヘアゴムが数本置いてある。楠本は俺の方へ身体を向けて口を開いた。
「髪が、結べなくなったんです」
「は?」
俺は斜め上の発言に思わず声を裏返した。楠本はそんな俺にかまうことなく、今にも泣き出しそうな瞳で、俺を見上げてくる。いつもの無表情ではなかった。
楠本はぽつぽつと続ける。
「私、毎日こうやって髪を結んでるんですけど」
「今日だって結べてるじゃねぇか」
「違うんですっ!」
楠本は短く叫んで俺の膝の上に両手を乗せた。
「今まではきちんと結べてたんです。後れ毛とか出さないできっちり」
俺は「ああ」と頷いた。
(几帳面な性格っぽいからな、楠本は)
楠本は俺のズボンを握り締める。
「なのに、今日結べなくなってたんです」
そういえば今朝髪を耳に掛けてたっけ。違和感があると思ったらそれか。
「どうしてだろうって考えると、どうやっても杉山さんの顔しか出てこないんです。髪を結ぶのに杉山さんは関係ないのに。どうしたら良いですか? 私、変な病気かもしれません!」
楠本は真剣な顔でそんなことを言った。眼鏡の奥でまつ毛がふるふると震えている。
俺は自分の両手を楠本のそれに重ねた。冷たい手だった。
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