被害妄執

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「なんでそんな恰好してるの」  五分以下の沈黙の後、奈緒の口から漸くこぼれ出た言葉だ。そして、それに対しての答えが、冒頭のそれである。  朝起きると、明子は誰かに殺されるような、そんな妄想に取りつかれたらしい。見知らぬ人間に、背を刺される。 「背にぶつかられた、そう思ったら、私は刺されていて。熱い、そう思った瞬間、心臓がそこに移動したみたいに脈打って、温かい液体が腰や足を伝っていって。わからないまま、私は咄嗟に足元を見て、それで血だって気付くの」  あるいは、喉を裂かれ、胸を突かれ……バリエーションは様々だった。同じなのは、噴き出す赤い血――特に喉からが壮観だったそう――止めようにも止まらず、体は震えだし、冷え、痙攣しだす――どうやら、ずいぶんリアルな妄想だったらしく、説明しながらも、明子は着ぶくれて太くなった腕を何度も擦っていた。血の類の話があまり得意ではない奈緒は、明子の言葉に少しめまいがし、不快になった。しかし、目の前で、ぐずぐず明子の顔を濡らし、鼻の下のくぼみにたまり、また涙の様に睫毛にまとわりついている汗が日に照らされ光っているのを見ていると、そう言っていられない気もした。 「それで……私、怖くて。少しでも、隠さなきゃいけないように思ったのね」  マフラーを鼻の下まで持ち上げた。ついでにさりげなく鼻の下のくぼみに溜まった汗をマフラーで拭ったのが見えた。毛糸に雫の光が幾分移動する。
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