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「あの、所長」  か細い女性の声が、帰宅しようとする私を呼び止める。気分が仕事からプライベートに移行していたせいか、大人げなく苛つき訝しげに振り返った。 「あ、……すみません」  顔を付き合わせた途端の謝罪。私の態度が余程恐ろしいものに映ったのだろう。若い研究員は肩を小さく跳ねらせると顔を俯かせた。 「……あぁ、いや、謝ることはない」  若干煩わしかったが、眼前に立つ研究員が新人の女性だと気づくと、少しばかり気分も変わった。  真新しい白衣に袖を通した華奢な体つきに、適当に引っくるめただけの髪。今年の春にこの研究所に入ってきたばかりの彼女は、何とも初々しい姿をしている。しかし、その初々しさの中にも、年相応の女性としての色香は備わっている。華奢なわりに豊満な胸に、薄化粧にも関わらず目鼻立ちのはっきりとした美しい顔。なにより、彼女の内にはただならぬ妖艶さが眠っているように思える。人を惑わし、人の心を侵していく毒婦のような艶やかさ。……ただ、彼女自身はそれに気づいていないようだが。  彼女は内にある自分に気づかないまま内向的な自分を表に出し、いつも人目を気にしている。今も、おどおどとした眼差しで、私の事を見上げている。そんな姿は、私に加虐性的な欲求を湧き起こさせる。そして、彼女の中にある毒婦の妖艶さを導き出したいと考えてしまう。 「……あの、所長?」  彼女の内にあるものを知りながら、うっかりその毒に飲まれそうになっていた。黙ったままでいる私に不安を覚えたのか、彼女はこれまで以上に怯えた様子で私を見ていた。 「ああ、すまない。それよりも、君。まだ帰っていなかったのか」  一応、私はここの所長を務める身。小さな研究所ゆえ、所員の出退勤の状況は把握できているつもりだった。まだ数名は残っているが、入ってきたばかりの彼女に残業までするような仕事は与えていない。だから、すでに帰宅したものだと思っていた。
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