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「まあともかくだ。あまりお嬢様を待たせてはいけないし、僕は行くよ。君はどうする?」
「私は、少しこの樹を眺めてから行きます」
「了解」と残して鋏を担ぎ、庭師は屋敷の中へ向けて歩き出した。執事はついていこうか迷ったが、見送ることにした。
屋敷に入るところで、庭師は足を止めて執事に振り返った。執事がそちらを見ると、少し傾いた太陽が庭師の背を照らしていた。
「ねえ、坊ちゃん。植物は、一つでは実を付けられない」
「と、言いますと?」
「外にも林檎の樹があるかもってことさ。じゃあねー」
執事は真意を汲み取れないまま、庭師を見送った。庭園には執事と林檎の樹、そして鋏の跡が残された。
風が通り過ぎて、人工樹脂の肌を撫でる。機械ながらに心地よいと思える、ほどよく冷えた風だった。
彼は林檎に軽く触れた。まだ小さく緑色をした林檎は、そのうち大きくなって、赤々と燃え上がり、きっと綺麗に熟れるだろう。
五年前の、家の林檎のように。
はて。その林檎は、どんな色をしていた? どんな形をしていた? どんな香りをしていた?
お嬢様はどんな顔をして、五年前の悲劇の中にいたのだろう。
「……?」
そこで執事は気づいたのだ。
――五年から前のことを、自分は言うほど覚えていないのでは、と。
ずき、と右のこめかみのあたりが痛んだ。顔をしかめ、執事は脈打つ痛みとノイズが通り過ぎるのを待った。やがて痛みは消え去ったが、違和感はいつまでも消えなかった。
目の前で林檎の樹が青々と茂っている。だが、かつて見たはずの同じ色を、執事は思い出せなかった。
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