「あのー。ちょっと静かにしていただけませんか?赤ちゃん、起きちゃうので」
私たちの声がよほど大きかったのか、隣の部屋に住む女性が半分だけ開けたドアから少し顔を出して言った。確かシングルで子どもを育てていて、朝も早く子どもを抱っこして出掛けていく。
「すみません」
先に言葉が出たのは長坂さんだった。私も「本当にすみません」と続けた。
「今日は帰ってください」
今度は極力小さな声にした。
「今日は?今度なんていつになるかわからないだろ。いまこのタイミングを逃したら、君の誤解は大きくなる。だから俺は帰れない」
「だけど」
「頼む。中に入れてくれ。ちゃんと話したいだけなんだ」
「わかりました…」
本当は帰って欲しかった。長坂さんといると、冷静でなんていられなくなるから。だけどあれ以上隣の人に迷惑をかけてしまうのは避けたかった。
ドアを開けて中に入るなり、後ろから抱きしめられた。振り解こうとしても、私の前でクロスされた長坂さんの腕はびくともしない。
「ずるいです…。ちゃんと話をしてくれるって言ったじゃないですか」
「ごめん。言ったことは守るよ」
そう言うなり、すっと長坂さんの腕から解放された。
「座ってください。いま、コーヒー淹れますから」
「ありがとう」
お湯を沸かしている間も、コーヒー豆を挽く間も、カップとソーサーを用意している間も、お湯が沸いて注いでいる間も。
ずっと長坂さんに見つめられていて、気持ちが落ち着かなかった。
ついさっきまで、あんなに帰って欲しかったのに。
この狭い部屋にまた、長坂さんがいてくれる喜びの方が私の中で勝ってしまう。
もし大事にされていないとわかっていても、長坂さんだったら付き合えるだけで嬉しいと思う女性なんてたくさんいるのかもしれない。
かと言って、私自身がそんな一人になりたいかと言えば、それは違うってはっきり言える。
私は、遊ばれて捨てられるような、そんな恋愛なんてしたくない。
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