ひとつ

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 年の頃は、三十になるかならないか。  手入れを怠った髭と短く切り上げた髪、屈強な身体つきの、見るからに腕のたちそうな大男。  男は名を櫻井(さくらい)と名乗った。 「無礼は詫びよう。その上で、おぬしに頼みがあるのだ」 「宿の主人もそう言っていた。それで、頼みとは?」 「ここでは言えぬ」 「ふむ。なら、何処でなら聞けるのだ?」  八月の問い掛けに、男はしばし思い悩み、やがて重たげに口を開いた。 「・・・・・・それも言えぬ。頼みを引き受けてくれるというなら、案内しよう」 「言えぬづくしだな」 「・・・・・・すまぬ」  男は深く頭を下げる。男の心情が垣間見える声音だった。 「・・・・・・ふうむ、どうしたものか」 「止しましょうよ、旦那」  迷う八月を石榴が止めた。 「こんな怪しい話、そこらの童だって乗りませんや。さっさと断っちまって下さいよ」 「ううむ。だがなあ・・・・・・」  ほっそりとした顎に指をかけ首を捻った八月は、次の瞬間、戸口に立て掛けられた板を  手に取り、それを櫻井に向かって投げた。  一閃。  櫻井は手にした長剣で板を切り裂く。  その目が見据えるのは、犬の姿の石榴。  八月が板を投げなければ、切り裂かれていたのは彼だっただろう。 「・・・・・・人にしては美しいとは思ったが、あやかしであったか」  櫻井は暗い目付きで八月と石榴を睨みつけた。 「違う、と言っても聞いてはくれぬのだろうな」 「人の言葉を解する犬など、あやかし以外におるまい」 「いや、ここに居るが・・・・・・おっと」  八月は身軽な動きで頭を下げた。宙に浮いた黒髪が数本、切られて床に落ちる。 「旦那!」 「近づくなよ、石榴。今のお前じゃ相手に出来ん」  石榴は悔しげに歯噛みした。八月の言うとおり、犬の躰で相手にするには、櫻井の剣は鋭すぎた。
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