0人が本棚に入れています
本棚に追加
働きはじめた後、それまでとは打って変わって、逸見がよく電話をかけてくるようになった。メールでもいいのに、わざわざ電話をかけてくる。
「いっちゃんが無理してないか、倒れてないか確認しているの」
というのが、彼女の言い分だった。確かに文字ではわからないことも声なら伝わってしまう。彼女がどうしてそこまで私の事を気にかけてくれるのかはわからなかったけれど、心配されることはくすぐったく心地の良いものだった。
独り暮らしに慣れた頃、彼女と会う約束をした。仕事帰りに夕飯を一緒に食べるだけの約束だけれども、心が浮き立った。梅雨に入ったばかりの時期で、約束の日にも雨が降ったけれども、いつもなら憂鬱になるその天気も気にならなかった。それほどまでに、楽しみにしていた。
仕事帰りにすぐ行けるようにと、彼女が私の会社の最寄駅まで来てくれたけれど、オフィス街には、お酒を飲まない私たちが夜遅くに気楽に入れるような店は少なかった。雨の街を彷徨って最終的にたどり着いたのは、結局、駅ビルのレストランで、こんなことなら歩き回る必要はなかったと、二人で顔を見合わせて溜め息をついた。
時間が経つのはあっという間だった。食事を終えてもすぐに帰る気にはなれず、店の外のベンチに腰掛けながら夜景を眺める。まるでカップルの行動みたいだと苦笑しながら、それでも久しぶりにゆっくり過ごせた気がして、このまま帰るのは惜しかった。
逸見は黙って雨に濡れる窓を眺めている。私も黙ったまま、窓の外の雨の街を眺め続ける。
あのビルの向こうに私の職場がある、と思いながら眺める夜景の、どこか欠落した現実感が違和感を連れてくる。これは本当に現在なのだろうか。私はもうずっと長いこと、夢から醒めてないのではないか。
窓から見えるガラス張りのビル、の白い廊下にぽつんと置かれた二台の自販機の明かり。無人の廊下の、目で見て取れるほど冷たく静まり返った空気。まるで地球上に彼女と私しかいないような孤独な気持ちが、急激に湧き上がり、すぐに引いていった。残されるのは空虚だけ。取るに足らない、小さな小さな私たち。
ぽつりと、逸見が言葉を零す。
「どうして、そう簡単に諦められちゃうの」
その指摘をいま言われるとは思わず、息が詰まる。答えない私には構わず、逸見が続ける。
最初のコメントを投稿しよう!