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ショウのお母さんが部屋を退出してからしばらく、私はその場を動けずにいた。
(あんな人、だったんだ……)
仲のいい夫婦だと思っていた。
都内の綺麗な一軒家に住む、裕福な一家。
幸せの象徴のような家族に、理想を体現したようなお母さんなのだと、何も疑わずそう思っていた。
その水面下で、彼女が憎しみと絶望を育て続けていたとは露ほども知らず。
私はずっと、あの家に憧れていた。ここに至って、やっと気付く。
自分が欲しかったのは結婚相手でも子供でもなく、家族という理想そのものであり、自分の巣だったのだと。
「鈴木様」
扉の外から声をかけられ、弾かれるように金縛りが解けた。
「申し訳ありませんが、そろそろ部屋を施錠したいので、ご退出願います」
「は、はい。すみません……」
あわてて立ち上がり、鞄を肩にかける。
少し迷ったが、机の上に置かれた封筒を鞄の中に放り込んだ。
* * *
揺籃(ゆりかご)のうたを カナリアが歌うよ
ねんねこ ねんねこ ねんねこよ
揺籃の上に 庭の枇杷(びわ)がゆれるよ
ねんねこ ねんねこ ねんねこよ
(『揺籃のうた』 作詞・北原白秋 作曲・草川信 )
* * *
「あら、『ゆりかごのうた』? 懐かしいわ」
カーテンの向こうから、喫茶リスボンのオーナー夫妻が顔を出す。
「こんにちは。調子、どう」
「ありがとうございます。お陰様で、なんとか」
「良かった。手術、いよいよ明後日だって?」
奥さんが少し緊張した面持ちで、私に向き直る。
「はい」
「もう、名前は決めたのかね?」
オーナーさんもつられて心配そうに、奥さんよりは少し遠慮がちに私の腹部へ視線を落とした。
「実は、まだ迷ってます」
私のお腹の中には、逆子がいる。
体操からお灸に鍼(はり)まで、様々な方法を試したが一向に骨盤位は治らず、帝王切開で赤ん坊をとりあげてもらうことになった。
「候補はあるんですが、一つに絞れなくて」
性別は女の子だと聞いた。
画数や字面、音の響き、言葉の意味、他の子と被らないかどうか。吟味しだせばキリがない。
「まあ、焦ることないよ。出生届を出すまでに決めりゃいいんだから」
長居しては悪いからと、夫婦は手土産のブリザーブドフラワーを置いて、病室を後にした。
薄紅や黄の花たちが、西日に照らされ淡く光る。
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