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波の音が、ほかのすべてから遮るように私たちを二人きりにする。今だけは仲睦まじい夫婦に見えていたらいいのに、と思った。 忘れていた。ずっと、こんなにも自然は音と香りで溢れていることも。こんなにも、星空が綺麗だということも。 「辺鄙なところだが、遮る建物も光もない。こんな満天の星を見る機会もそうないだろう。酒の肴にはうってつけだ」 「ふふ、無粋ですね。でも…たしかに」 黒々とした海。なにもかも吸い込んでしまいそうなその黒を見下ろす星たちは、そのどれもが意志でもあるかのように光り輝いていた。 今日、愛人である私を弔ってしまおうと決めていた。海にすべてを流してしまおうと。 私は空を仰いで目をつむった。そして、深呼吸をする。 “彼の人生が彩り豊かで、幸多きものでありますように” 私では叶えられない願いを、そのきらめく絨毯に祈った。これからは、一人で生きていくのだ。そう、自分に言い聞かせて。 夜も更けて、私たちは布団を並べて眠った。今までありがとう、と電気を消した部屋で彼が呟くように言って、私は声を殺してまた泣いた。 翌朝、ゆっくりと朝食を味わった私たちは、来たときのように部屋を整えた。今日の夕方には、また別の誰かがここで大切なときを過ごすのだろう。そんなことをふと浮かべると、部屋を後にする直前、ひっそりと部屋に一つお辞儀をのこした。 「今回は、本当にありがとう。仲居さん、昨日の図らいは最高だったよ。お陰で、後悔を残さずに済んだ」 「…?」 文彦さんが仲居に向かって深々と頭を下げると、理由など知る由もない彼女は、小首を傾げていた。その姿に苦笑する。続いて私も口を開いた。 「また来年、お邪魔しますね」 お墓参りに、と心の中で呟いて。 「はい!是非、お待ちしております!」 パッと花咲くように屈託なく笑う彼女が、やっぱり羨ましく映る。私も、あんな素直な表情ができたら良かった。後ろめたさばかりを抱えたこの恋も、羨望も。すべて此処に置いていこう。 挨拶を交わして踏み出す一歩は、どこか軽やかだった。
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