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◇
“隠れ家のような旅館がある”と連れてこられたこの土地は、ひどく辺鄙な場所にあった。
「いいところですね」
「あぁ、海が綺麗で食事が美味いんだ」
以前にも、こうして誰かと来たんですか?そう口に出すのを、寸でのところでつぐむ。ここを私の墓地にしよう、そう決めてきたのだから。
玄関は狭く、木製の引き戸は年月を重ねているような鈍い音がした。
「ようこそお越しくださいました」
いかにも職人という寡黙そうなご主人と、この辺鄙な土地には似つかわしくない美人の仲居。それがこの、“かもめ荘”という古びた旅館の唯一の従業員だった。
「牧内で予約しているんだが」
「はい、牧内様、ニ名様ですね。ではまずこちらにご記入をお願い致します」
愛想良く手際もいい仲居は、チラッとこちらに視線を向けるとにっこり笑う。
「十九時からのお食事なんですが、今日釣れたカワハギの煮付けが絶品ですので楽しみにしていて下さいね」
愛嬌のあるその笑顔は、私がずっと欲しかったものだった。
一通りの手続きを済ませると、私たちは部屋に案内された。たったの三部屋しかないという小さなこの旅館は、釣り客と私たちのような客が多いのだろうなと勝手に想像する。
「文彦さん、長旅で疲れたんじゃないですか?」
「なに、どうってことはないよ。君は先に風呂でも入ってくるといい。出てくるころには丁度、夕食の時間になるだろう」
長風呂の私を気遣って、彼がそう言った。
出会った頃に比べて、ずいぶんと皺も白髪も増えた文彦さん。歳が十以上も離れているとはいえ、それがこんなにも遠く感じるようになるなんて、数年前は思いもしなかった。私たち二人が出逢って重ねてきた時間よりも長い期間、彼と寄り添ってきた人を思い浮かべる。
「私が生まれる前からの知り合いに、勝てるものなんてないのよね」
浴槽に首まで浸かったまま天井を仰ぐ。フッと口元に、嘲るような笑みを滲ませた。
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