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 部屋に戻ると、文彦さんはぼんやりと外を眺めていた。 「あぁ、温泉はどうだった?天然温泉なんて、都会生活をしているとまず入ることもないだろう」 「ええ、いいお湯でした。肌も、少しは生き返った気がします」 「紅子(こうこ)さんの肌はいつだって綺麗じゃないか」 「おだてても、なにも出ませんよ」  微笑交じりにそう返した。  紅子さんの肌はいつだって綺麗じゃないかーーそんなこと、軽く言わないで。そう心の中で彼に投げつけた。  彼の秘書として、今日までやってきた。いつでも冷静に、少し楽観的な彼をときには叱りながらも、一歩下がって彼を支える。会社での妻のような立場に、いつしか恋慕の情を乗せてしまったのは、彼がひどく紳士的で懐が深かったからだった。それでも立場があって家庭もある彼を、ただ近くで支えることにやり甲斐も見出していたのだが、募る想いはゆっくりゆっくりと彼との距離を縮めてしまった。この数年は、ついに心を通わせ、身体を重ねるようになった。いけないと何度もやめようとしたのに、気付けばどっぷりと底なしの沼に足どころか身体まで囚われて。そうしている間に、私ももう四十歳を迎えてしまったのだった。 「失礼致します。お食事のご用意ができましたので、配膳をしても宜しいですか?」  仲居がそう言ってこちらの様子をうかがった。 「あぁ、ありがとう」  物腰柔らかに、彼が仲居にそう伝えた。  テーブルにずらりと並んだ日本料理は、まるで芸術作品のように色とりどりで繊細に盛り付けられていた。そのどれもが、あの仏頂面のご主人の作品なのだろう。見ているだけで、うっとりとした溜め息がこぼれた。 「では、いただこうか」 「はい」  お互い、多くは言葉を交わさずに箸を手にする。一言二言交わしながら、その空気までも味わうように緩やかな時間を楽しんだ。 「本当に美味しいですね。…こういうところで働くのも、悪くないかもしれない」  おもむろに、そう口に出す。 「はは、なにを言っているんだ。君に辞められてしまったら、うちの経営は回らないよ」  軽い冗談でも受け流すように文彦さんは言った。  すこし楽天的で落ち着き払っていて、弱さなど微塵も見せようとしなかった。そんな彼を、ときに寂しいと思いながら見てきた。  私は静かに箸を置いて、文彦さんを見据える。 「冗談でなく、本当に。今日はそれを話したくて我がままを言ったんです」
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