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 誕生日くらい目一杯我がままを言ってもいい、と文彦さんに言われて、一度くらいはと旅行を提案したのは私だった。  彼は予想もしていなかったのか、目を見開いたまま動きを止めてこちらを見た。 「もう…こんな関係もやめにしようと思って」  ずきずきと痛む心も、詰まりそうな息も。すべてを振り払って、飲み込んだ。 「なにを…言ってるんだ」  彼は、そう言って言葉を失くしたようだった。  ずっと思ってきたことだ。許婚であり近所の幼馴染だったという奥様としか関係を持たないままに生きてきたと彼は言っていた。そこにひょっこり現れて、勝手に想いを寄せて、今のような関係になって。彼をここまで支えた奥様にも、そんな奥様に寄り添ってきたはずの彼にも、申し訳なさばかりが静かに胸に降り積もっていった日々。私さえいなければ、彼はきっとこんな汚れた関係など持たずに済んだのだ。 「もう四十になってしまったけど、まだ私なら相手くらいは見つかると思うんです。ほら、文彦さんも言ってくれたでしょう。私の肌はまだ綺麗だって。…結婚もできないような人との不毛な恋も、そろそろ潮時かなって」  少しおどけた口調でそう言った。そうでもしないと、今この場で泣き崩れてしまいそうだった。  潮時ーーそんなものは、とうに過ぎていただろう。潮時だというなら、きっと私の女としての方。この歳で、今から新しい相手を探すのは難しいことなど分かっている。それも、こんなに身を焦がした相手を手放したあとに。 「やめてくれ!君を失くして、私はどうしたらいいというのだっ。会社など関係ない、私が…私がやっていけないんだ。済まなかった。妻との関係もそのままに、君と過ごしてしまった私が悪かった。妻とは別れる、だから…」 「文彦さん、駄目です。そんなことは私ができません」  はじめて見る彼の取り乱した姿に、こちらの涙腺ももう限界だった。  ずっと見てきたのだ。好きなものばかり食べようとする彼の栄養が偏らないようにと、ときどき弁当を渡されていることも、いつだってピカピカに磨かれていた革靴も。すべて、奥様が彼を想って、毎日毎日やっていたのだろう。昔気質の気配り細かな奥様の姿を、この十数年、幾度となく目にしている。「夫がご迷惑をお掛けしてはいませんか」と、目じりに柔らかな横皺を携えて言われたとき、自分が貴女に迷惑を掛けているのだと胸が苦しくなった。これ以上は、もう無理だ。
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