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 目から零れては落ちる滴を、どう止めたらいいのかも分からなかった。 「知ってるでしょう。私は料理が苦手です。奥様みたいにあなたの健康を気遣って美味しい食事を用意することもできない。あんな広いお屋敷で、あなたと奥様の慣れ親しんだものばかりのところで暮らせる度量もありません。なにより、私は秘書です。周りの目が、この関係をきっと許さない。あなたが積み上げてきたそのすべてを捨てて私を選ぶなんてことも、してほしくはないんです」  家庭を長いこと任されてきた奥様に、仕事ばかりしてきた私が勝てるわけもなく。幼少から苦楽を共にしてきた人に、たかだか数年心を通わせた私が敵うべくもなく。何よりも、私がそれを望めない。私の幸せは、彼の平穏にほかならないからだ。それを崩してしまった後悔を、続けることに耐えられなくなっただけ。 「君は…離れてしまうことに耐えられるのかっ」 「あなたがいつか苦しむことを思えば、耐えられます」 「…っ」  きつい言葉だとは分かっていた。もっと優しい嘘を吐くことができれば良かったのだが、こればかりは私の我がままだ。彼を好きなまま、彼のために別れを選ぶ私を覚えていてほしいという、最後の我がまま。  長い沈黙だけが二人を包んだ。潮騒が聞こえて、それが重苦しいふたりの空気をさらに湿っぽくさせた。  食事をなんとか済ませて、私たちはお互い言葉を交わさぬままお酒を啜っていた。地酒だという日本酒は濃い味を口いっぱいに広げて、飲み込むと爽やかな余韻を残した。 「すみませーん」  引き戸の向こうから、間の抜けた女の声が聞こえた。中から返事をすると、仲居がひょっこりと顔を出す。 「あのー、言うの忘れてたんですが」  そう言って仲居が案内してくれたのは、海に面した中庭にあるちょっとしたスペースだった。木製の古びたテーブルと椅子だけがあり、ここで食事や酒盛りをしてもいいのだという。 「今日はとても天気がいいので、こちらで飲まれてはいかがでしょうか」  にっこりと、こちらの空気など知る由もなく彼女はそう言う。フッと隣で彼が笑うのが分かった。 「そうだな、ここで飲み直そうか、紅子さん」  先ほどまでの醜態などおくびにも出さずに、いつも通りの柔らかな笑顔をこちらに向けた。奥様と似た、目じりの横皺。 「ええ、いいですね」  口元に笑みを滲ませて、私もそれだけを返した。
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