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 もう十分だった。俺の中に俺の知らない蒼の空白の期間が這入って来る。彼女の空白がほかの何物でもないただの空白だったこと。青春を真っ白に染め上げたのは俺だったこと。人と交わることに於いて俺はどうしようもなく薄情だったこと。泣き崩れても喚いても蒼に謝ることなんてできないこと。そして、かつて蒼を大好きでいたことがあったこと。全細胞に住み着いた。目を開けている限り遺書に並びたてられたゴシック体が湧き出る。それらはかつてないほどの暴虐性を見せ、やがて俺はその妄執から逃れるためにノートパソコンの前を根城に小説を書き始めた。 「これは、俺の言葉じゃない……」  俺の中の蒼が、どこかの誰かを傷つける。自らを傷つけること叶わなくなった為だろう。残虐で不潔で、怨念、執念、雑念の限りを文字の羅列として残していく。図らずしもひとつが入賞してしまい、俺は蒼のおかげで小説家をやっていけている。  蒼はもはや涙も出まい。声も出まい。蒼はあの日飲酒運転の車に斃れたけれども、俺の中で声を無くし、文字として居着いている。  蒼斃(アヲイシ)唖生(アオイ)。そう名乗ることにした。  そして今日。精密検査の結果が出た。やはり蒼は対価として俺の右腕をご所望らしい。脱臼した右肩に骨肉腫が見つかった。右ひじ、手首へと転移していたが肺へは到達していなかったのが唯一の救いか。  抗がん剤での治療を勧められたが俺はすっかり右腕を切断し蒼に献上する腹積もりでいる。さらなる検査入院のためこれから準備をしなければならない。
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