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「わざわざ買って来てるくせに読んでないのかよ。だけどな、これから書くこの小説だけはどうしても読んで欲しい。今俺がどういう状態であるか、なぜそうなったか。話したくても話すための……その、器官がないんだ」
「なんでそんな難しい事言うの? なっちゃんわかんない」
にへら、と笑っている夏子の顔も十分すぎるほどに白くて、寒々しい。先ほど跨いだばかりの黒いノートパソコンの電源を入れ、執筆ソフトを立ち上げる。キーボードの「A」が取れかかっているのも、仕方ないとまで思える。俺はひとしきり思案した後、やはりこの小説を書くのならば書店に平積みされているペンネームなどではなく、かつての名前を使うのがいい、だがそれはこれで終わりだ。これ以上は、夏子以外には誰にも語るまい。五指に行き渡った電気信号が文字の羅列を生む前に、心の深淵から顔をのぞかせたあのちょっぴり狐目をしたどこか擦れた印象の処女(おとめ)が顔を覗かせる。勿論その顔に口は無い。電気信号の奔流となり、やがてタイトルを打ち出した。
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