いち

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「七瀬ー」 ヘッドフォンの左側を掴み、再度耳元で名前呼ぶ。…あれ、音楽鳴ってない。 「……近い」 「え?」 小さく呟かれた言葉を、思わず聞き返す。 「…だから、近い」 心底迷惑そうにいう彼の言葉の意味を理解し、俺はのけぞって離れた。しまった、俺も大概パーソナルスペースが狭いってことを忘れてた。 「あっ…ごめん。音楽で聞こえてないのかと思って……。………まっ…まぁ音鳴ってなくても聞こえないことある、よなぁ!」 取り繕うように言い訳をしてみるが、あまりに無反応な相手に若干不安になった。少しの沈黙の後、俺は仕方なく本題を切り出した。 「あ…のさ、聞いてたかもだけど、今日カラオケに「行かない。」…」 言葉を遮ってまでなされた即答に、俺は思わず硬直した。…数秒後、おそらく極端に引きつっているであろう愛想笑いを浮かべ口を開いた。 「そ…か。じゃ、また今度な」 なるべく明るく努めて手を振ったつもりだが、うまくできた気はしなかった。まあ、肝心の七瀬はすでに本の世界に戻ってしまっているのだけれど。当たって砕けるを絵に描いたようななんとも情けないこの状況をどうすることもできない俺は、どうすることもしないままその場を立ち去った。
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