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 パンツのゴムを引っ張ると中を見られた。何事もなかったかのようにくるりと踵を返して大浴場の湯気の向こうに消えていく。それを見たらこっちも馬鹿らしくなってパンツを脱いだ。眼鏡は外すか悩んだけど、どうせ曇って見えないので外した。  ・・・・・・普通ってなんだ、普通って。覚束ない視界のまま湯気の中に踏み出して、そういえば名前も何も知らないな、と思い出した。 「なんであの電車に乗ってたの」 「・・・・・・仕事、です」  バイト、と言うべきか悩んで、仕事、と言った。これ一本で食ってるし、というのとあとは単純な見栄。いくつに見えてるか知らないけど、実際実年齢より老けて見られることが多い。色の濃くなった茶色い髪からぼたぼたと水滴を落としたまま、そんな中身を知ってか知らずか「ふうん」とだけ相槌を打たれる。質問と同じ言葉を訊き返すと「俺もそんなとこ」と笑う。 「何系なんですか」 「んー、ざっくり言うと文筆業」 「へえ、俺わりと本読みますよ」 「本じゃないんだなあ、言っても絶対分かんないと思うから言わない、・・・・・・えーと」 「?」 「名前」 「・・・・・・佐伯です」 「下の名前は」 「・・・・・・・・・・・・春生」 「ハルは何系?」  いきなり下の名前を呼ばれて面食らった。家族や友達には確かにそんな呼ばれ方をしているけど、出会って二時間足らずの人に。別に人見知りなわけではないと思っている、でも、この早さはちょっとビビる。     
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