一九二四年 四月四日 果穂子

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庭を通り抜ける卯月の風は寒気を帯びてまだ冷たく、薄着で長く外にいるのは適さない。膝を折り曲げて池の際に佇んでいた果穂子は思わず紬のひとえの合わせを直した。 金魚邸(きんぎょてい)の庭はこぢんまりとはしているが、厳選されて植えられた樹々が美しい。今彩りを庭に与えている樹花は山茱萸(さんしゅゆ)、そしてあと数日もすれば桜が花開くはずだ。 けれど、この庭の主役は何と言っても中央に位置する(おお)きな池である。 ひら、とまた金魚は方向を変えた。果穂子は覗き込む。この池はまるでパレットだ、見る毎にそう思う。赤い琉金、朱の蘭鋳(らんちゅう)、更紗のコメットに黒く光る蝶尾(ちょうび)。珍しいものではキャリコの出目金など、複雑な柄のものもいる。さまざまな色がランダムに乗った絵具のパレット。 その中に淡い橙色の背びれを見つけたとき、不意に背後からしゃがれた声が響いた。 「こちらに居なさったのですか」 振り向くと下ろしていた肩口の髪がはらりと落ちる。 「果穂子お(ひい)様」 邸の方向から使用人のテイが歩いてくるのが見える。果穂子は立ち上がった。 「お姫様だなんて、お呼びにならないでくださいな。その呼ばれ方、あまり得意でないの」 曖昧に笑ってみせる。 「それに、わたくしは」 「そんなことを云われましてもお姫様はお姫様でしょうに」     
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