前奏曲 人魚の泡

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      とけていく。      淡く輝く月が、ゆらめく海上に音もなく光を降らせている。  ぷかり。  墨をたらしたような海に、浮かび上がる泡は銀色。  月光を浴びながら、波にたゆたう。ひとつ。ふたつ。浮かび上がっては、はじけて、泡は消えた。         ゆっくりと。      自らの身体を造り上げていたものが、はがれ落ちていくのを、彼女は見ていた。  深海の闇底に、沈んでいく身体とは逆に、はがれおちたそれは泡になって、光の降る海上へと昇っていく。  恋い焦がれるように、彼女は、手を伸ばした。夜の海の、淀んだ暗さの中でさえ、彼女の腕は白く輝くようだ。緩慢な仕草でのばした指先を、すり抜けるようにして、また泡が昇っていく。      後悔はしていなかった。  彼女の身体はあぶくになって、少しずつ崩れていたけれど。  彼の名を冠する月の光が、自分のかけらを葬送り出してくれるのなら、こうなってしまったことも幸せにすら感じられる。        ああ。月露(つくろ)。      彼女は胸の中で、いとしいその名前をささやいた。  わたしの身体は、尾びれも背びれも両の腕も、海神さまのもとへ還るけれど、この魂は、わたしの中にあったこの魂だけは、貴方のもとに寄り添うだろう。  決して認めてはならなかった、口にしてはならなかった、禁忌の想いだけれど。  それは彼女に、多くの苦しみを与えたのだけれど。  同時に、彼女はとても満たされたから。        あいしてる、月露。      それが悲劇しかもたらさない、許されない想いだとしても、彼女には後悔はなかった。      浜辺から、声がしている。いとしい人の声だ。必死に、彼女を呼んでいる。  応えたくても、彼女にはもうそんな力は残っていない。  彼女の魂をつなぎとめていた最後の鱗が、ゆっくりと、はがれ落ちた。海を透かして注ぎ込む、月の光に抱かれて、それはあぶくへと戻る。      銀色の泡は、波に翻弄されてゆらめきながらも、海上を目指して昇っていった。  
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