奥の座席

1/1
3人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ

奥の座席

 会社の近くに、たまに立ち寄る蕎麦屋がある。  味はいいし値段は手頃、店が広いので、昼時でもまず待たされない。  そんな店だから、うどんや蕎麦を食べたい気分の時は、迷わずその店を利用していた。  でも、通う内に少しだけ奇妙なことに気がついた。  店の座席は、空いていれば自由に選んでいいのだが、たまに、顔を見せるなり店員に奥へ通される客がいるのだ。  気づいてからは注意して見ているが、同じ人が奥に通されることはないので常連さんではないようだ。  普段利用しているスペースも充分広いが、さらに奥があって、そこには特別な客だけが通されている。そう思うと、自分も一度は奥の席に座ってみたいと望むようになった。  だからある日、店に入って『お好きな席へ』と言われた際、さりげなく奥へ行ってみようと思った。  だが、いつも見ていた筈なのに、奥へ向かう通路がない。  通される人達は、トイレの横を通ってその先へ進んで行くのに、トイレの隣は壁になっているだけだ。  当然だが、触っても、隠し扉のようなものはなかった。  気のせいにしては、これまで何度も奥へと押された人達を見かけている。となるとやはり、触っただけでは判らない仕切りがあるとしか考えられない。  もう一度、トイレの横の壁を押してみる。びくともしないので、今度は少し引っ張ったり、横にスライドさせてみようとしたが、まったく動く様子はない。 「お客さん。何されてるんですか?」  店に入って来たものの、席にもつかず、トイレの横でごそごそしている俺を不審がったのだろう。店員が声をかけてくる。その相手に、俺は正直に、奥の席に座ってみたいと話した。  途端。 「お客さんはダメですよ。まだ健康そのものですから。…ウチをご利用して下さっている間に、もし条件が整うようでしたら、その時は迷わず奥の座席へと押しますから。今のところは手前のスペースをご利用下さい」  にっこり笑いながらそう言われ、俺は反射でいつも座るエリアの空席に腰を下ろした。  健康そのものだから奥へは通せない? でも条件が整ったら案内できる?  思い返すと、絶対とは言い切れないけれど、奥に行った人達は二度と店内で見かけたことがない…気がする。  どうやら、奥に行く条件とやらは整わない方がいいらしいし、そもそも、奥の座席に行きたいなんて、考えない方がいいことのようだ。 奥の座席…完
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!