Ⅲ. 試練の始まり

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 私たちの生活に似つかわしくないことが起こったのは、結婚から二年が過ぎたころだった。  祐基が昇進した。  同期の中でも一歩早い昇進を嬉しそうに恥ずかしそうに告げてくれた彼に、私は独身時代に貯めていた貯金の大半を使って、ブランド物の腕時計をプレゼントに用意した。  祐基がどんな仕事をしているのかということは、詳しく聞いたことがなかったけれど、セクションのひとつを任されることになったらしい。 「給料もあがるから、由美さんももっと欲しいものとか買っていいよ」  私たちにとっては贅沢なお店で、ワインを飲みながらそう言ってくれた祐基にプレゼントの時計を渡す。 「ユウさん、おめでとう。いつもありがとう」  言葉の途中から、祐基が驚いた顔をするのが楽しかった。 「凄い、ありがとう!こんなの持ったことないよ」 「へそくりじゃないよ、働いてたときの貯金が少し残ってたんだ。そんなに高級じゃないよ」  照れながら言うと、祐基は嬉しそうに笑ってから、 「ありがとう、由美さん。僕はこれからもバリバリ働いて、由美さんにもっともっと幸せになってもらうんだ」  そう言って古い腕時計を外して、プレゼントの時計を左腕につけてくれた。  大きな窓ガラス越しに煌く夜景を見ながら、順風満帆な夫と二人で、美味しいフランス料理とワインを飲んで。それは絵に描いたような幸せな時間だと思う。  けれど、ワインと幸せな気分に酔いながら、この結婚を選んでよかったと心の中でふと思ったとき、幸せな感覚と共に自分の中に打算的な汚らしさを感じてしまった。  あんな始まりであったことが、今なお祐基に対して恥ずかしくて申し訳なかった。  昇進の前も祐基の仕事に残業はあったけれど、それでも夕食は二人で採ってきた。専業主婦の私が夫を待たないのはいけないことだと思っていたから。  祐基がなんらかの事情で夕食がいらないときを除いて、朝食と夕食は二人で一緒に。それが私たちのスタイルだった。  私が外食をすることはほとんどない。  雅也とのことを知っている大学以降の友人とは会う気もなかったし、地元にいる友人達は子育てに忙しい。それにまだ子供ができないことを気の毒そうに言われるのも嫌だった。  祐基が昇進してからは少し変わってしまっている。昇進してからというより、その少し後にあった大きな組織変更の後からかもしれない。彼が定時で帰って来られる日は皆無になっている。  ある日、残業で遅く帰った祐基を待って10時すぎに一緒に食事を採っていたとき、 「由美さん、僕を待たずに先に食べてくれていいから。こんな時間になったら体に悪い」  祐基がいきなりそんなことを言った。 「平気だよ、私は家にいるんだから」  そう答えると、 「ダメだよ、太っちゃうよ」  と、ふざけたように。 「太っちゃだめ?」  私もふざけて言うと、祐基は急に焦ったように 「そんなことない!でもあのワンピース、着れなくなるよ」  誕生日に買ってもらったばかりのワンピース。どうしても欲しくなって強請(ねだ)って買ってもらった。 「それは困る」 「だから先に食べて。そうだな8時に帰らなかったら先に食べてて。それに遅いときは先に眠ってていいよ。食事はラップをかけてくれていれば電子レンジもあるんだから」  食後のお茶を飲みながら、そう言ってくれた祐基に 「わかった」 と頷いたけれど、せめて祐基が食事するときは側にいたいと思っていた。  祐基の帰る時間は平均して遅くなっていた。約束の8時に帰ってくることは稀で、帰ることができる日の方が時々になっていた。  それだけではなく、土曜日も休日出勤をしたり、書斎に籠ることも増えている。  昇進直後の組織変更で、仕事が大変になっていたのかもしれない。 「祐さん、大丈夫?」  祐基の体を心配してかけた言葉に、彼は笑顔で 「大丈夫だよ」 と答えてくれる。その笑顔を見て安心する。つい最近もらってきた健康診断の結果は、全て問題なしだった。 「由美さんが栄養バランス考えた食事を作ってくれるから、健康優良児だ」  そう言ってくれた祐基の笑顔で、私はまた幸せの雲の上にいるようなほっとする温かい感覚に包まれていた。  おかしなことが起こったのは、そんな日々が数ヶ月続いたあとだった。  その日も祐基は遅かった。食事を待つ約束の時間は8時と決めていたけれど、祐基は必ずメールをくれた。  その日の異変といえば、祐基からのメールが来なかったこと。それでも会議のときなどはメールはかなり遅かったし、私は特にそのことを気にもせず、一人でテレビを観ていた。  好きなドラマのちょうどCMの時間にかかってきた1本の電話。  それは警察からだった。  事故?そんな不安が沸き起こって一瞬目の前が真っ暗になる。  けれど、違った。事故ではなかった。  祐基が警察に拘束されている。  信じられなかった。とにかく言われた警察署に車を走らせた。  自分が事故を起こしてしまわないようにと、細心の注意を持ちながらハンドルを握っていた。ただ警察に拘束されているということと、自分の夫、祐基とがどうしても重ならない。  被害者であるならともかく。  警察署の駐車場に車を停めたときも、なぜ自分がここに来たのかということが、巨大なクェッションになって思考を鈍らせていた。  入口を入ったところで、用件を伝えるとそこにあるソファで待たされた。  5分ほどして暗い廊下から足音が聞こえる。そして祐基が一人で顔を出した。  立ち上がった私の方に走りよってきてくれた様子に、どこも怪我をしていないことにほっとして涙が出そうになる。 「由美さん、ごめんね」  かけられた言葉に、ポロンと一粒だけ零れてしまった。  車の中で祐基は何度も謝ってくれる。ずっと謝っている。 「急に職務質問されて、ちょっとムカついたんだ。それで」  若い警察官を突き飛ばしたらしい。そんなことで拘束するなんて。  私は腹がたっていた。 「祐さんに職質するなんてバカじゃないの?その警官」  私が怒っているのが、自分ではなく自分を攻撃した相手であることに、祐基は少し嬉しそうだった。 「きっと新人だよ。なるべく優しそうな人で練習しようとしたんだよ」  プリプリと怒りながらの私の言葉に、祐基はやっと笑う。 「突き飛ばして悪かったかな」  私もハンドルを持ちながら笑った。  でもその夜、お風呂の中で少し考えた。人を突き飛ばす祐基は想像できない。     
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