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その夜には鹿の刺身を食べた。貴重な醤油と山ワサビを付けて。臭みも少なく、ただ肉の美味しさが舌に広がる。
「とてもうまいんねー。」
「黒のおかげだよ。ほんと、お前ほど山に愛されてる者もおらんだろう。」
撫でてくれる手は温かく気持ちいい。目を閉じ堪能する。もっと撫でて。
「お、もっと撫でてほしいんかい?黒は撫でられるのが好きなー。」
「そんなら、私も撫でようかね。よう、やった。えらいぞ。」
ぽかぽかして、とても嬉しい。いつもよりもずっと美味しくご飯を感じる。
日が暮れたらすぐ眠る。茶熊から取れる油は少なく、高価だ。無駄遣いするわけにはいかない。真っ暗な闇を見つめ、目を閉じた。
今、思うとこの時が一番自分にとって幸せだったのだろう。外の世界のことなど何も知らず、優しい爺さんと婆さんに可愛がられ、更には自分のこと自身も全く理解していなかった。村人たちについてもだ。
ああ、今日は何故か昔のことを思い出す。代わる代わる、まるで夢を見ているかのように。
鹿を食べて幾日かたった朝、幼なじみのグレイに森に遊びに行かないかと誘われた。それも、沢の向こうの森に。
グレイの叔母さんに起こられるぞと、うろんな目付きで目を向けると、言いたいことがわかったらしい。
「確かに、母ちゃんも父ちゃんも駄目だ、あそこは怖いぞ、恐ろしいぞ、と脅してくんけどさー、何が危ないなんて言ってない!まだ、あっちの森に行く時は、茶熊も危ないが奥行きすぎんと黒杉熊が出るぞ、って言ってんのに!」
確かに、爺さんと婆さんも具体的には何も言わなかった。そう言われると好奇心溢れ体力が有り余る年頃、俄然興味がわいてくる。
よし、自分も参加する、とうなずくと、うっしゃー!と雄叫びを挙げる。
「それに黒がいるから大丈夫だな!」
そこまで言われるのは嬉しいが、恥ずかしいと顔を背ける。グレイはからからと笑い、さあ、行こう!と元気に歩き出す。慌てて、自分も後を着いていった。
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