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父は幼い頃に亡くなったのだ、と母に教えられて育った。 父の遺産がとても多く残っていて、それでも母としての役割だからと働きながら家事をしてくれた母を見てきた。家事の手伝いも、だから小さい頃から当たり前にやるようになった。 大きくなるにつれて、顔も思い出せない父のことなど気にもしなくなった。それだけの莫大な遺産を残せる人に、なぜ興味を示さなかったのだろうか。 しかし、母の話によると父は亡くなってなどなく、私が保育園に上がる前に離婚していたらしい。お互いを信頼し合っていて、穏やかで、誰が見てもきっと幸せな家族像だった。父はそのころ大企業の幹部で、母とは少し歳が離れていた。そんな夫婦は、たったの一つのほころびで簡単に終わりを迎えたという。 浮気。 父の近くに女の気配があると気付いたとき、すぐに問い詰めたが父は口を割らないままだったようで、見事にもつれた夫婦仲はあっという間に破局。 「信頼し合っていたなんて、どうして思ってしまったのかしら」 そう零した母の声は、力なく響いた。 その頃の口論と、裕福だった生活から一気に母子家庭になって家が慌ただしくなったことが、記憶よりももっと奥深くに根付いていたのかもしれない。お金に振り回された記憶。父の、嫌な思い出。 「でもね、去年の6月に、電話が来たの。相手は、大河内楓さん。ついに結婚はしなかったようだけれど、私たちと離れてからずっと、彼女が彼を…夫を支えてくれていたみたい」 夫。今でもそう口にしたことが、まだ父を想っている証明のように聞こえた。 落ち着いた様子で、母は言葉を続ける。 離婚をしてから、養育費というには高すぎる額がずっと口座に毎月振り込まれていたのだという。しかしそのお金は、働いて得たのでも足りなかった分を、ごくたまに補填する程度にしか使わなかったと母は言った。それに頼ってしまったら、父の浮気を疑って離婚までした母として、娘にできることがなくなるような気がしていた、と。 私が手元を離れて、一人で暮らすようになって。それでも勤めを続けていた母が、祖母が倒れたことによって仕事を辞めた。そんなとき、私に言ったのが“父さんの遺産がたんまりあるから、あんたは気にせずに好きにやりなさい”という言葉だった。それを聞いて、何かがあったときのために、母は父の遺産にあまり手を付けずに残していたのだと思ったのだが、どうやら違ったらしい。
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