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「ねぇ、敬司?私お腹が空いたわ」
女の口から美しいソプラノが響いた。
クリーム色の壁。茶色いフローリングには薄緑の丸いカーペット。照明は最近ようやく買い換えたばかりのLEDライト。
ありふれた部屋だ。どこにでもある、普通のマンションの一部屋。
だが、どこか異質だった。
例えば、家具が極端に少ないこと。
テレビも、本棚も、タンスも、果ては椅子もない。
申し訳程度に時計とミニテーブルが物悲しく置いてあるのみ。しかしミニテーブルに積もった埃を見るに、使用されていないことは明白だった。
例えば、部屋の一角にだけ散乱したゴミ。
カップ麺や冷凍食品、煎餅やスナック菓子の袋。スポーツ飲料やお茶、オレンジジュースといった飲み物のペットボトルは、飲みかけのものも見られる。
共通するのは日持ちしそうだということ。
例えば、カーテンが締められていること。
時計の指す時間が正しいとすれば、今は十時。明るい時間帯だ。ここは二〇階建ての六階で、人目を気にする必用はない。
例えば、例えば、例えば。
例えば、そう。
何より異質なことがあった。
手錠の輪の片方づつに腕を通した男女。
男女ともに顔立ちは整っている方だろう。
だが浮かべている表情は、全く違った。
女は、微笑みを。
男は、無気力に無表情を。
女の目は濁り、ただ男だけを見ている。
男の目に光はなく、焦点の合わない視線をどこか遠くに向けている。
さらにいえば、男の手首は赤黒い。血が酸化した上に固まり、さらに鬱血しているのだ。
「ねーぇ、敬司?聞いているの?」
女が再度、口を開く。
反応しない男に痺れを切らしたのか、その大人びた美貌に似合わない、子供のようなむくれ顔になり、男に近付いた。
「敬司ったら。……あ」
女がなにか思い出した、というような表情になる。
「そっか、腕まだ痛いよね。血が止まったとはいえ、それ昨日のことだし。喋ると響いちゃう?可哀想な敬司。でも、でもね」
女の顔から表情が消えた。なにも映さない瞳で、さらに男に躙り寄る。
「敬司がいけないのよ?暴れちゃ駄目って言ってるのに暴れまわるし、腕振り回すし。そもそも、なんでこんなことになったか、分かってる?」
ここへきてようやく、男が反応した。……弱々しく、首を振っただけではあるが。
男には、分からなかった。なぜこのようなことをされているのか、何が原因だったのか。
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