クリス・レイモンドの手記 2

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 目の前で、妻が眠っている。  古びた衣装箱にくったりともたれて、静かな寝息をたてている。その閉じたまぶたには深い憂いが色濃くうかび、あどけない顔をくもらせている。 可憐で美しくやさしい、天使のような妻に、いったいなにがあったのか。彼女を傷つける者は、誰であろうと断じて許しはしない。と、いいたいところだが、愛する妻を悩ませている、その不埒な悪人とは、ほかでもないこの自分なのだった。  話は数時間前にさかのぼる。 今朝、気まぐれに私の衣裳部屋を整理しようと思い立った妻は、奥に積んである荷物の下にひっそりと置いてあった、古い木箱を開けてしまったのだ。 なぜもっと早くあれを処分しておかなかったのかと、己の迂闊さにいらだつ。 けれども、当時の若かりし自分と、まだ清らかな乙女だった妻との、甘い思い出の詰まったあれを捨てるのはなかなかしのびなく、どうすべきかと考えているうちに2年もたってしまった。 衣装部屋の奥で、すわりこんだまま眠ってしまった妻の頬には、涙のあとがひとすじ。そしてその手は、箱の中にあった、今ではもうすっかり色あせた黒い布をしっかりとにぎっていた。 それは、私の古いマントだった。 黒いそれに身を包み、同じ黒のマスクをつけて、幾度彼女のもとに通っただろう。 二人すごしたあの懐かしい日々に、私はしばしの思いをはせる。 あのころはまさか、こんな未来が待っているとは露ほどにも思わなかった。 一騎士である我が身なれば、王女殿下のおそば近くでお仕えできることだけでも大変光栄なことで、ましてや遥か雲の上に住まう方であるはずの、この美しい姫君を愛するなど畏れ多く、やましい気持ちを持つことなど、考えたことすらなかった。 いや、今思えば、身の程もわきまえず、心のどこかでは彼女を想っていたのかもしれない。 ひょんなことから同じ時間を共有し、その愛らしさに気づいてしまったら、自分には手の届くことのない姫君とわかっていながらも、その声がクリス・レイモンドの名を口に出されたときの驚きと歓喜を、私は止めることができなかったのだから。
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