一 最強剣士と愛弟子

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 机に突っ伏してだらしなく眠りこけるマーシャ・グレンヴィルは、自室に近づきつつある気配に目を覚ました。  磁器の人形を思わせる白くすべらかな頬には、下敷きにしていた書物によってへこんだ跡が残っている。  やや切れ長の目を擦り、頭をかく。髪の毛はぼさぼさに乱れていた。  椅子に腰掛けたまま、大きく伸び。肩にかかっていた丈の長い上着がはらりと床に落ち、舞い上げられた埃が陽光を反射して輝く。  日はすでに高く、南から西に移りつつあった。半開きの窓から流れ込む空気は暖かく、かすかに花の香りが混じる。季節はすっかり春だ。 (――まったく、難儀な身体だ。良い酒を飲んで気持ち良く酔った次の日くらいは、惰眠を貪らせてくれてもいいものなのに)  そんなことを考えながら、彼女は自嘲気味に苦笑した。たとえ睡眠中でも他人の接近を容易く許さない。そんな野の獣のごとき習性が、彼女の身体には染み込んでいるのだ。  かつて、このシーラント王国において無双と謳われた女剣士、マーシャ・グレンヴィルは、当年二十八歳。数年前に現役から身を退いた彼女は、ここ王都レンの下町でひっそりと暮らしていた。  マーシャは、先ほど感じた気配にふたたび注意を向ける。階段を上ってくる足音から、二人の若い女性のものと察する。 「……そういえば、今日はミネルヴァ様がいらっしゃる日だったか」  呟き、長く豊かな黒髪をかき上げる。うなじの辺りでひとつに結わえると、重い腰を上げて立ち上がった。平均的な成人男性よりも頭半分ほども抜けた長身から、すらりと長い手足が伸びる。「ちゃんとしてさえいれば」舞台女優のよう、と評される立ち姿である。  部屋の中は、空の酒瓶や使いっぱなしの食器類、脱ぎ散らかした衣類、うず高く積まれた書物などで散らかりに散らかっている。その端正な外見には、およそ似つかわしくない部屋の有様である。床に転がるワインの空瓶を脇に蹴飛ばしつつ、玄関に向かう。
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