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「それでねぇ、あの人ったら私のおちょこを酔った勢いで割ってしまってね。あの人のおちょこだけ残ってしまったんだけど、なぜかあの人、そのおちょこを私にくれるって言うの。夫婦茶碗ならぬ夫婦お猪口だったから、あの人のは少し大きめで男の人むけの意匠だったわ。でもそれをやるって言い張って、結局いただいたわ。自分の分はまた買えばいいっていうあの人の言葉になんの疑いも抱かずに」
施設長から聞いていた通り、いやそれ以上に聞き役は面倒で、退屈だった。オムツの交換に寝返りの補助、入浴の補助も見学したけど、ぽっと出の大学生にできることなどあまりない。結局、忙しく働く介護職員の代わりに、おばあさんの長くつまらない話を聞く羽目になった。
はいはい、わかってますよ。
その後おばあさんのイイ人は亡くなって、ずっと前に生き別れた娘は相変わらず行方知れずで、イイ人が残した半分のおちょこで酒を飲む毎日なんでしょう。
三回も聞かされたら大体の概略は覚えてしまう。五回聞かされたら次のシーンがわかってしまう。十回聞いたら、正直怒りすら湧いてきた。だからなんだ。私はなんの罰であなたの人生を暗記させられているのだ。
「それでね、これがあの人が残したおちょこなのよ」
話の最後にはおばあさんは必ず、もう酒が注がれることはないおちょこを大切に棚から手にとって、実花に見せるのだ。
(……やっと終わる)
実花はおばあさんが差し出すおちょこを手に取り、一通り眺めるふりをする。そうしないとおばあさんはあからさまに不機嫌になるのだ。
「見たよ、おばあちゃん」
もう言うべき感想は言い尽くし、無骨な口調で返すしかない。それでも見さえすれば、おばあさんは機嫌がよく、いずれ眠りについてくれる。
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