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溺れる魚はわらを掴めない
「あの」
人波に押し出されるようにして流れ出た中央改札。目の前にあるのは、旅行の宣伝のためのポスター。
寒さが深まるにつれて、灰色に染まっていく世界の色。行き交う人々はダークな色を身にまとうせいで空気が重たく沈んでいるように見える。
そんな中で、視覚に飛び込んでくる南国の青や緑の鮮やかさはどこか異質な存在だと考えている最中だった。
ぼーっとポスターを見上げていた時間はほんの数分だった。
私の名前を呼ぶでもない、その声からは自信のなさしか感じられなかった。こんな雑踏で、おそるおそるといった風情のその声に私が反応するには根拠が足りないとしか思えない弱弱しさ。
それでも私は、それが自分に投げかけられた声なのだと確信した。だから、振り返る。
青年が一人立っていて、向かい合う形になった。
「……こんにちは」
灰色のスヌードに鼻から下を埋もれさせた顔に付いていたのは、伸びきった重たそうな黒い短髪と太めの黒縁の眼鏡。その奥からのぞく切れ長な瞳が、少し高い位置から私のことを見下ろしていた。
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