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まだ片手で数えられる程度しか顔を合わせたことのなかった頃は、自分が言葉を返すことは一度もなかった。しかしあまりにしつこく声を掛けてくるから、うっかり応えてしまったのが始まりだった。
今思い返しても、最初の反応がその後のふたりの関係を決めてしまったのだと思う。失敗したと、思う。
これまで誰にも訊ねた事のないことを訊いてしまったのだ。よりによってこの男に。
***
『やあ名無しさん』
『…………』
『今日もご機嫌斜めなのかい?』
『…………』
『俺はそれでも構わないけれどね。勝手に話していくよ』
『……貴様は』
『うん?』
『気味が悪くないのか』
『何がだい?』
『………解っている癖に訊くな』
『わからないからこそ訊いているのだけれど?』
『嘘も大概に』
『わからないことを訊ねるのはそんなにいけない事かい?』
暖簾に腕押しとはまさにこのこと。これ以上は無駄な労力を使いたくない。
ふうう、と長く長くため息を―――聞こえよがしに大きく―――吐くと、視界の端で穏やかに微笑む男をひと睨みしてから答える。
『……毎日毎日話しかけてくる物好きは貴様くらいのものだ。知っているだろう。気味が悪くないのかと聞いている』
自分だけではない、例え気に食わない輩相手だろうがおそらく常に腹の内の読めない笑みを絶やすことない男は、あの瞬間だけ少し驚いたように目を見開いた……ように見えた。
後にも先にもあんな表情を見たのは一度だけだ。
少しの間を開けてからいつものようにゆったりと微笑み、言った。
『俺には、ただ我儘な子供にしか見えないねえ』
***
……印象としては最悪だった。
なら話しかけるなと怒った覚えがあるくらいだ。
しかも怒った自分に対して『おやおや、可愛らしいねえ』と微笑み続けるという理解不能な男だった。こちらからしたらむしろ貴様の方が薄気味悪いと心底思ったし、実際憎々しげな顔をして言い放ったはずだ。
それでもやはり、微笑まれてしまった。
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