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私――楠木 ゆずは、田んぼが広がる地方出身者ゆえ通っている日明大学の近辺に独り暮らしをしている。独り暮らしも3年目に突入して、慣れてきた感じがする。
「楠木さん」
後ろから柔らかい声が私を呼んだ。
少し高揚して、口角があがったけれど直ぐに戻して私は呼ばれたほうへ振り返った。
「おはよう」
「誠さん、おはようございます」
私を呼んだこの人――田辺 誠さんは昨年度に日明大学大学院を卒業し、この春から小難しい名前の研究所で研究に明け暮れる日々になった。社会人になるという名目で少し明るめだった茶髪を黒髪に戻し、天然のゆるめのパーマが風になびいている。見上げた先にあったその優しい表情に、半年前私は恋をした。
「楠木さん、ほっぺが赤いけど熱か何か?」
「え…っ、いや違います!チ、チークです…!」
「そっか女性は大変だね」
「毎日お化粧ごくろうさま」とふわりと優しい声が降ってきて、胸の高鳴りが抑えきれずにいた。誠さんは、知らぬ顔で桜の木に目をやり、「綺麗だね」なんて言うものだから私は首を縦に動かすことしか出来なかった。
「誠さんも、どうして研究所の近くに引っ越さないんですか?絶対大変なのに」
誠さんが属する研究所は、田舎の端にあって交通の便もなかなかに良くない。ここなんかに住んでいたら片道1時間半はかかってしまうはずだ。
「うーん、どうしてだろう」
桜の葉が儚く川に落ちていくのを見つめながら、誠さんはそう呟いた。
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