桜の朝

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 翌日もその翌日も、葵は桜の下で彼を見つけた。追い抜かれて気づくこともあれば、背中を見つけることもあった。どちらにしてもふたりは一度も立ち止まること無く、寧ろ互いの顔を見るたびに速度を上げて、幾度と無く抜いて抜かれたけれど、一度も言葉は交わさなかった。  二週間ずっと、そうだったのだ。  葵はその小さな頭の後ろ、きゅっと縛った黒髪が、走るたびにぴょんぴょん跳ねるのを見た。彼が少しだけ葵より小さいことを知った。音楽プレイヤーの音量を絞って、規則正しい、跳ねるみたいな彼の足音を聞いた。少女向けに作られた人形のように整った面立ちの口元が、あくどい子どものように悪戯に微笑むのを、幾度と無く見続けた。  ある日には、彼の向こうに爽やかすぎるぐらいの青空を見た。冬の乾いた薄氷の空ではない、水を含んだ柔らかな青に、彼からする冬の気配の正体が、その白すぎる肌にあるのだと気付いた。肌理細やかなうえに抜けるように白いから、朝の光を反射して、薄く張った氷のように、つめたく澄んで見えるのだ。  それなりの速度で走っているのに、唇から溢れる息はたしかに上がっているのに、肌だけはちっとも熱を宿すことなく、冷たい白さを保ち続けていた。 (こいつ、本当に、人間か?)  なんて、馬鹿みたいなことを、葵は多分、殆ど本気で思っていた。  彼の名前を知らない。声を聞いたことすらない。それでも毎日顔を合わせて、理由もなく一緒に走っている。  それだけで、よかった。     
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