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ワレスは嘆息して、椅子の背もたれによりかかった。
メーファンも同様にガッカリしたらしい。声から勢いがなくなっている。
「あるじ。たしかに、この男の言うとおり、酒がなくなっているのだな?」
「空きビンを見つけました。お持ちしましょうか?」
「いや、いい。しかし、そうなると……」
残るは、サウディしかいなくなる。メーファンもそう考えたようだ。
「サウディと言ったな。おまえたち夫婦の部屋も、ブロンテのとなりだ。角部屋でないぶん、なおさら音は聞こえたはず。そうではなかったか?」
こめかみに白髪の目立ちはじめた初老の男。サウディは妻をいたわるようにながめてから、静かに答える。
「たしかに、尋常でない物音はしていたように思います。ただ、隣室のかたは、ひどく酔っておいでだったので。その勢いで、なにやら始めたのだろうと思っておりました」
「抗議しようとは思わなかったのか?」
「かかわりあいになりたくないおかたでしたので。今夜一晩、私一人が我慢すればいいと考えまして」
「一人? 二人だろう?」
すると、オーベルが大声で笑いだす。
「しかたねえよ。おばさん、聞こえねえんだもんな」
その事実には、ワレスも気づいていた。
昨夜の夕食の席で、サウディをいやに手ぶりの多い男だと思ったが、そうではない。注意深く見ていれば、すぐに気づく。サウディは妻のために手話で話していた。
妻のメルは言葉を話していたが、ときどき、発音や抑揚が外れる。自分の声が聞こえてないのだ。それでも話せるのだから、過去のある時点までは聞こえていたということか。
「ずいぶん前です。家内は頭を強く打って、以来、耳が聞こえなくなってしまいました。そのようなわけで、家内は今朝まで隣室の異変に気づいておりませんでした」
耳の不自由な妻と同室——ならば、妻が寝てから、気づかれずに、夜中じゅう、隣室の男をロープでつるす作業もできただろう。
しかし、オーベルとは違い、サウディ夫婦は裕福そうだ。ブロンテとも、とくに衝突していない。人殺しをする理由がないように思える。
すると、サウディ夫婦の反対側の隣室のティルダが、遠慮がちに口をはさんだ。
「あの……たぶん、そのかたのおっしゃってるのは、ほんとですよ。わたしも昨夜は物音が気になって、よく寝られませんでした。ですから、わかるのですが、物音がしてるあいだ、両どなりのドアがひらく音はしませんでした。人が出入りすれば、気づいたと思います」
そう。ワレスもオーベルが帰ってくるときの足音を聞いた。かなり慎重な忍び足だったが、それでも聞こえたのだ。誰かが部屋の近くを通れば気づく。
(これで、サウディも除外か。まあ、オーベルの言うとおり、宿の泊まり客が、見ず知らずの相手を殺す道理はないわけだが)
こまりはてたように、メーファンがため息を吐く。
「ううむ。このなかで、夜中の物音に気づいてたのは何人だ?」
そろそろと、客たちが手をあげる。
ワレスをふくめ、四人。
ワレス、サウディ、ティルダ、ティモシーだ。
ブロンテの部屋から対角線上に遠い、カースティとジョナサンは気づかなかったという。もっとも、ジョナサンは高齢だ。耳じたいがやや遠い。
「物音が続いたのは、どのくらいの時間だった?」と、メーファン。
ワレスは首をかしげる。就寝中だったので、時間の感覚がない。断言はできない。
サウディやティルダは、一時間くらいではないかと答えた。
「僕はそれより、となりのイビキがすごくて、正直、そっちに悩まされました。夜が明けるまで、ずっとだったんですよ」
そう言ったのは、ティモシーだ。寝不足の目で、オーベルをにらんでいる。
オーベルはどこ吹く風だ。口笛をふいて、すましている。しかし、これで、オーベルの無実は決定的となった。
「ううむ……では、誰でもいい。ほかに何か気づいたことはないか? なんでもいい。異常はなかったか?」
やけになったように、メーファンがたずねる。
応える者はいない。
メーファンは毒づいた。
「クソォ。このなかの誰かが殺したはずなのに……」
それを見て、ショーンが恐る恐る口をひらいた。
「あの……」
「なんだ? 何かあるのか?」
「それが……言おうか言うまいか迷ったのですが……」
「なんでもいいから言わないか」
「は、はい!」
メーファンの剣幕に恐れをなして、ショーンは打ちあける。
「では、申します。今朝から、わけのわからないことばっかりで、これをどう考えていいのか……。きっと、お役人さまなら解決してくださるでしょう。じつは、今朝、わたしがブロンテさまの部屋に参りましたとき、ドアにはカギがかかっておりました」
この発言がもたらす重大な意味を、メーファンはまだ理解してない。
「だから、どうした」
「はあ……昨夜、酔いざましを持っていったとき、私はマスターキーでカギをあけ、なかへ入りました。部屋を出るときには、また、かけなおしたのです」
ワレスの脳裏に、昨夜の光景がよみがえる。
ロウソクの小さな炎に浮かびあがる、ショーンの姿。
そうだ。あのとき、ショーンは左手にロウソクを持ち、反対の手でドアにカギをかけていた。
思わず、立ちあがり、ショーンを問いつめる。
「ちょっと待て。つまり、ブロンテの部屋は、朝まで密室だったのか?」
ショーンは申しわけなさそうに、うなずく。
「はい。そうなるかと……」
ここに来て、事態は思わぬ方向に進んでしまった。
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