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「なんでもない。だが……行かなければ。行って、清算してくる」 「何を?」  ジョスリーヌは知りたがるが、言えるわけがない。  子どもだった自分を虐待(ぎゃくたい)した男からの遺産なんて、受けとりたくもないから放棄してくるんだ、とは。  じっさい、ワレスが今の境遇に堕ちた原因は、たぶんにこの男にある。あの悲惨な四年間がなければ、ワレスの心はここまではゆがまなかっただろう。ルーシサスに対しても、もっと素直になれていた。 「馬を一頭、かしてくれないか。ジョス」 「一人で行くつもり?」 「……ちゃんと帰ってくるよ」 「そうよね。あなたに帰る場所なんて、ほかにないものね」  それは経済的にという意味だろうか。  あるいは、心情的にか。  たしかに、ワレスは宿なしだ。だからといって、ジョスリーヌのもとが、放浪の果てに最後にたどる家路とまでは思ってないのだが。  そこまで、うぬぼれるなよ——という言葉は、さすがにのみこんだ。 「行ってくる」  ジョスリーヌはまだ何か言いたそうだ。  しかし、ワレスは手早く身じたくを整えた。  入口に立つジェイムズを押しのけて、ろうかへ出る。勝手知った屋敷だ。案内なしで裏口から馬屋へまわる。持久力のありそうな馬をえらんで、自分で(くら)をのせた。  ワレスが目ざすのは、皇都の南に位置するサイレン州の神殿だ。  皇都は南北を巨大な湖に、はさまれる形になっている。  その南のほう、サイレス湖の西岸をつたって南下していくと、馬で四日の距離にその神殿はあった。  十二歳のとき逃走した経路をくわしくおぼえているわけではない。が、湖岸をたどっていけば迷いはしない。  まず、その前に自宅によった。まだ、ジゴロになる前にころがりこんだ借家なので、庶民的な共同住宅の二階だ。  だから、厳密には宿なしというわけではない。  ただ、そこが(つい)の住まいではない。  放浪の途中。  それは自分が一番よく理解している。  ワレスは今後、自分にやすらぎをあたえてくれる家など、終生ありはしないのだと知っていた。  帰るべき場所はどこにもない。  ワレスの帰りを待つ人が、この世のなかにいないのだから。 (しかし、それにしても、もう少し見ばえのいい家に越すべきか)  貴婦人が相手の商売だ。  少なくとも愛人と密会できる家をもつのはムダではない。  そんなことを考えながら、華美なジゴロのふうていを、手持ちでは地味な服にあらためた。わずかな日用品で、急ぎ、旅支度をする。  ワレスが準備をおえて外に出ると、門の前にジェイムズが立っていた。荷物をくくりつけた馬をつれている。さては、ジョスリーヌの協力があったらしい。 「おれのあとをつけてきたのか?」  にらみつけて言ったのに、ジェイムズは息をきらしながら笑う。 「あやうく、見失うところだった」 「帰ってくれ。おれを怒らせたいのか?」 「ご婦人のたっての願いは断れない。君を一人で行かせるのは、どうしても心配なんだそうだ」  冗談じゃないとは思った。が、よく考えれば、ジェイムズは役人だ。治安のいいユイラとはいえ、旅に危険はつきもの。護衛をつれ歩くのは悪くない。  要するに、神殿関係者と会わせなければいい。 「わかった。道中、おれの過去を詮索しないと約束するなら、ついてくるのをゆるす」 「それはいいが、君は高飛車な物言いをするようになったなあ。私は友人だから、いいとも。だが、ラ・ベル侯爵は身分の高いご婦人だ。あの口のききかたはないと思う」 「おれの勝手だ。いやなら、ついてくるな」 「いやなわけじゃない。おどろいてるだけだ。あの優等生だった君が」  そんなのは猫をかぶってただけだ。  ワレスは無視して馬に乗った。  あわてて、ジェイムズが追ってくる。  ジェイムズと旅をするのは、こういういきさつだ。  道中、奇怪な殺人事件にまきこまれるとは、このときは思ってもみなかった。
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