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「おい、あるじ。ヒューゴはまだか?」
「まだ、お見えではありません」
「くそッ。あいつめ。いつまで待たせる気だ。メシだ。メシ。酒を持ってこい!」
男は階下までおりてくると、ワレスたちを押しのけて、ひとつだけ空いたテーブルの席についた。
「おい。酒だと言ってるだろう」
がなりたてるのだが、小間使いはほかの客の給仕に忙しい。
それに、ワレスの気のせいでないなら、忙しさにかこつけて、男をさけているように見える。
困りはてたようすで、あるじがワレスたちにささやいた。
「申しわけありませんが、少々、お待ちいただけますか?」
お行儀よく、ジェイムズが答える。
「ああ。いいとも」
あるじはワレスたちをその場に残して、男のもとへ急いだ。
「お待たせして申しわけありません。ただいま、お持ちいたします」
あるじは階段よこの細いろうかの奥へ走っていった。彼らの住居と厨房があるのはその奥なのだろう。
どんな早業を使ったんだか、まもなく、あるじは一人前の料理と高価そうな酒を運んできた。
が、男のきげんは直らない。周囲を見まわし、小間使いに目を止めると、いやらしい笑いを浮かべて手招きする。
「酌をしないか。気のきかん女め」
小間使いはあからさまに軽蔑的な顔をした。口さきだけは丁寧に断る。
「ただいま、たてこんでおりますもので。だんなさま。わたし、そちらのお二人のお料理を用意してきますね」
ワレスたちをダシに厨房へ逃げこむ。
あの感じでは、すでに何度も、その男にイヤなめにあわされているのだ。
小間使いが逃げたせいで、男はさらに不機嫌になった。ぶつぶつ文句を言ったあと、標的を少女に変えた。
オレンジ色がかった赤毛の少女。
中年の女と相席しているが、親子だろうか?
あまり似ていないから、他人かもしれない。
男はたいこ腹をたたきながら、そっちに向かっていった。自分の孫の年の少女の腕を、いきなり、つかむ。
「あんたでいいから、こっちに来い。あんただって、おばさんとメシを食っても、ちっとも面白くなかろう。さあ、来いというんだ。金ならある。そら、これで文句ないだろう? お高くとまるんじゃないぞ。この貧乏人が。サイレン州一の金持ちのヤン・ブロンテさまが、一晩、目をかけてやろうと言っとるんだろうが」
あきれたことに、子どもでも笑って、お使いの頼みをことわりそうな小銭を、少女の頭の上にばらまいた。
これには、ワレスの堪忍袋の緒が切れた。
正義漢ぶったわけじゃない。ただ、ブロンテが嫌いなタイプだったのだ。
つかつかと歩みより、ブロンテの顔面にパンチをお見舞いする。ブロンテは派手にふっとんだ。
「目ざわりだ。失せろ」
ワレスは騎士学校こそ出ているが、育ちはよろしくない。素手のケンカになれていた。手かげんなしでなぐったから、歯の一本や二本、折れていてもおかしくない。
だが、ブロンテの歯は折れてなかった。
入れ歯だったからだ。
ブロンテは顔をおさえて、ヒイヒイ言いながら、口からはみだした純金の入れ歯をはめなおした。
「き、き、きさまぁ……わしを誰だと思っとる。州都じゃ、その名を知らんものはおらん、ヤン・ブロンテさまだぞ。きさまごときチンピラ。わしがちょいと声をかければ、すぐにも役人がしょっぴいてくれるわ」
「あいにく、おれはあんたなんて知らない。第一、役人を呼びたいなら、その必要はない。ここにいるジェイムズが、お待ちかねの役人だよ」
とたんに、ブロンテの顔色が変わった。
あらためてジェイムズを見て気づいたらしい。ジェイムズが高貴な人物であると。ジェイムズの内からにじみだす品位はこういうときには便利である。
ジェイムズは猫をかぶっていた学生時代のワレスしか知らないから、酔客につっかかっていく友人を、あぜんと見ていた。呼びかけられて、ハッと我に返る。
「ああ……うん。皇都裁判所預かり調査部。第三中隊長の、ジェイムズ・エロール・アリオン・ル・レイ・ティンバー准男爵だ。未成年者への売春強要は刑法により裁かれる。さきほどのあなたの行為はこれに該当するようだ」
ブロンテは卑屈な笑いをうかべ、両手でもみ手を始めた。恐ろしいほど権力に弱い男だ。
ワレスにはブロンテがどんな人間だか、もう察しがついた。下品で横暴で、ずるがしこく、目下には徹底的に残酷だが、目上にはとことんゴマをするタイプ。お芝居に出てくる、典型的な悪徳商人だ。
「ご冗談でしょう。お役人さま。酒の席でのざれごとでございますとも。ええ。むろん、本気ではございません。わしとしたことが、少々、冗談がすぎたようでございます。ひらにご容赦を」
へこへこと頭をさげて、もとの席に戻っていく。なにごともなかったかのように、平然と食事を始める。厚顔、はなはだしい。
なりゆきを見守っていた、他の客はホッとした。それぞれの食事を再開する。
あれだけのさわぎがあっても、誰も中座しようとしなかったとは、むしろ、おどろきだ。男はともかく、女や女づれは、とっくに逃げだしていていいはずなのに。
(やっぱり、何か変だな)
ワレスはブロンテをにらみつけ、少女の手をにぎった。
少女のすわっていた席には小銭が散乱し、せっかくの料理も台なしだ。なにより、少女が怖がっているだろうと思った。宿のあるじをうながし、階段の上まで、いっしょにつれていく。
ところが、
「両親はいっしょでないのか?」
「はい」
「これにこりて、女の一人旅はよすんだな。これよりも苦い社会勉強を、身をもってする気はないだろう? 今夜はこのまま部屋にこもって、カギをかけておくといい」
忠告すると、少女は困ったような顔をした。
「なんだ? 不満か?」
「いえ。そういうわけでは……」
言いながら、階下を名残おしげに見ている。
ワレスが思ったより、少女は冷静だ。
「もしかして、ありがた迷惑だったか?」
少女は不自然に長い時間、考えこんでいた。
「助けていただいて、ありがとうございました。ご迷惑でなければ、あなたがたと食事をごいっしょさせていただけませんか?」
十五、六とは思えない言葉づかいで、たのみこんでくる。
ワレスは気が進まなかった。というより、この宿に泊まったことじたい、後悔し始めていた。
どうも、何かがおかしい。
宿のふんいきも、客たちの反応も、何もかもが。
微妙な違和感をかきたてる。
だが、おぼっちゃまは、この感覚を理解してないようだ。ニコニコ笑って、こう言った。
「いいじゃないか。女の子一人じゃ心細いに決まってる。相席しようじゃないか。ワレサ」
しかたなく、ワレスはうなずいた。
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