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2
へべれけに酔ったブロンテが、宿のあるじに八つ当たりしながら、自分の部屋にひきあげた。
とたんに、食事の席はなごやかになった。
他人どうしの集まりだ。
会話がはずむわけではない。が、あきらかに場の空気が変わるのがわかった。
ブロンテの部屋は東側の二部屋のうち、北より。あるじの肩をかりて、ドアのなかへ入っていく。
ブロンテの背中を見ながら、ワレスは言った。
「いやな男だな。存在するだけで他人を不快にさせる。できれば、この世から抹殺してやりたい」
冗談でもなかったが、ジェイムズはおだやかな笑みを見せた。
「今日は虫の居所が悪かったんだろうよ。おりてきたとき、すでに酒くさかったしな。それにしても……ヤン・ブロンテ? どこかで聞いたような……」
「役人に顔がききそうだったな。あれは袖の下をかかさないタイプだ。あんたも以前にワイロを受けとったんじゃないか?」
ワレスがからかうと、ジェイムズは真剣な顔で否定する。
「見くびらないでくれ。私はそんな不名誉は断じてしない。しかし、嬉しかったよ。ワレサ。やっぱり、君の本質は何も変わってない」
「何が?」
「君は昔から、正義感が強かったじゃないか」
ジェイムズのニヤケ顔に、むかっ腹が立った。
「違う。あんたの知ってるおれは、ほんとのおれじゃない」
ワレスの反論にも、ニコニコ笑うばかり。
いっそ、すべての事実をぶちまけたい衝動にかられた。が、それをせずにすんだのは、相席の少女が口をひらいたからだ。
「さきほどはありがとうございました。わたし、カースティと申します。あなたがたが、お役人だというのはほんとですか?」
あいかわらずの、かたくるしい口調。
たしかに見ためは若い。きゃしゃで女の子らしい。だが、まるで、八十の老婆と話しているように錯覚させる。
ワレスは、ジェイムズとの口論は休止にした。カースティを見直す。
「いや、役人はジェイムズ一人だ。おれはただのろくでなしさ」
「お役人と旅なんて心強いですね。うらやましいです」
短い会話のあいだ、ワレスは注意深く、カースティを見ていた。見れば見るほど、この子はふつうの少女とは違う。
なによりもまず、ワレスの美貌を前にして、心をときめかせるふうがない。
愛想笑いはするが、心の底からは笑わない。
この年齢なら、誰もが持ってるはずの明るさが感じられない。
生きている喜びを全身で表現するような、あのまぶしさが、ない。
(こいつ。似てるな。おれのガキのころに)
一見、まじめで、おとなしい優等生。
だが、ほんとは世界中の誰一人、信用してない。
どんなときにも、世界の欺瞞を見逃すまいと目をこらしている。
自分だけの力で生きぬくために。
ジェイムズの知る学生時代のワレスの、それが真の姿だ。
カースティにも同じ匂いが感じられた。
たっぷりの秘密と暗い過去を養分に、ひっそりと咲く妖花を、魂の暗闇にかかえている……。
(この子にかかわると、ろくなことにならない。きっと)
ワレスはもう、カースティとの会話にはくわわらず、食事に専念した。
新鮮な魚料理が、とにかくウマイ。
ワレスにはなつかしい郷土料理だ。いやな思い出しかない土地だが、味覚はこの地を恋しがっていた。それがまた、しゃくでならない。
おまけにデザートが、ひときわ、郷愁をそそるものだ。甘く煮つめたライスを詰めたパイ。この地方では、よくお祝いの席に出される。
ワレスも、まだ母が生きていたころ、誕生日に作ってもらった記憶がある。
最後にそれを食べたのは、五つのときだったろうか。
家族が全員そろって食べた、思い出の味……。
ライスパイはホールのまま運ばれてきた。宿のあるじの手で切りわけられながら、各自の前に一皿ずつ供された。
あるじが、ワレスたちの席にまわってきたのは最後だ。レディーファーストで、カースティへ。続いて、ジェイムズ。ワレス。
「お客さまには不愉快な思いをさせて、申しわけありませんでした。ブロンテさんは昨夜からお泊まりですが、おつれのかたがお越しでないので、機嫌が悪いのですよ」
あるじは三十代だろうか。若いのに、できた男だ。あれほど迷惑な客なのに、ブロンテを擁護している。
「なるほど。それが予約の客か」
「はい。ヒューゴ・ラスさんというおかたです」
あるじがヒューゴの名を告げたとき、ワレスはまた場の空気が緊迫するのを感じた。
誰がどうおかしいとは言えない。が、何人かは、かすかに緊張した。別の者は、ちらっとこっちをうかがった。
それとも、すべては、ワレスの勘違いか?
「ヒューゴ・ラスねえ。とりたてて有名人ではないようだが」
あるじは苦笑する。
「それはそうでしょうね。この村で有名なのは、血まみれディバルくらいですから」
「しかし、ブロンテは有名人らしい。つれのヒューゴも、案外、ここじゃ有名なのかもしれない」
あるじは困惑顔だ。
「なぜですか?」
「いや。いいんだ。おれの思いすごしだろう。それにしても、ライスパイとはなつかしい」
ワレスはデザート用のフォークをあるじから受けとる。それで狂ったようにパイをつきさした。
あるじの目が微笑ましげになった。
「お客さまは、こちらのかたなんですね」
「子どものころ、こっちにいた」
「さようでしょうとも。料理はお口にあいましたか?」
「うまかったよ」
答えながらも、フォークを刺す手をゆるめない。
ジェイムズがあきれ顔で見ていた。
「おいおい。ワレサ。行儀が悪いぞ」
「こうしておかないと、あとで困る」
と言ったときには、すでに遅い。
いきおいよくパイを口につっこんだジェイムズは、おかしな声をあげて、とびあがった。
「んぐッ!」
「ほら。言わんこっちゃない」
「んぐぐ……」
「それはクルミのカラだ。飲まずに出したほうがいいぞ」
「……んるみ?」
ところが、目を白黒させて、ジェイムズが吐きだしたのは、クルミではなかった。小さな女物の指輪だ。宝石はついてないが、いちおう金でできている。
ワレスは首をかしげた。
「ふつうはクルミのカラを入れるもんなんだ。なあ、あるじ?」
宿のあるじは答えなかった。感慨深い目で、ジェイムズの口から出てきた指輪を見つめている。
「おい。あるじ?」
「あ、はい。さようです。パイのなかに、一つだけ入れておきまして。それが当たったかたには幸福がおとずれるという……この地方の古くからの伝統です」
あやうく指輪を食わされかけたジェイムズは涙目だ。
「なぜ、指輪なんだろう?」
「わたくしどもからのサービスでございます。どうぞ、大切になさってください」
サービスと言われても、貴族のジェイムズは、宝石のついた豪華な指輪をいくらでも持っている。そんな、みすぼらしい指輪をもらっても、ありがたくはあるまい。
しかし、人を思いやる心はある。指輪を丁寧に絹のハンカチにくるんで、ふところに入れた。
「ありがとう。もらっておくよ」
ワレスはどうも、この一件が気にかかった。
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