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その夜。二人で客室に入ったあと、
「なあ、ジェイムズ。変じゃないか? ここの連中」
たずねてみたが、ジェイムズはまったく意に介してなかった。
「おかしいって、何が?」
「何がと言われても困るが」
「きっと疲れてるんだ。早く休もう」
寝る以外、やることがないのは事実だ。
いつも貴婦人相手に、その日かぎりの愛をささやいているワレスにとって、これからが夜の本番なのだが。旅のあいだは、おとなしく昼型の生活を守っているしかない。
しかたなく、眠くもないのにベッドによこたわる。が、眠れるわけがない。
となりのベッドからは早々に寝息が聞こえる。憎らしいくらい気持ちよさそうだ。
およそ、半刻ばかりも輾転反側していた。
やはりムリだと起きあがったころ、宿のなかは深夜のように静まりかえっていた。
まだ夜中までには、二刻はあるだろうに。
(どいつもこいつも、夜の早い連中だな)
ワレスは窓から外をながめた。井戸のある中庭が見えるだけだ。おもしろくもなんともない。
そう言えば、リビングルームのすみっこに本棚があった。こんな田舎の宿だから、ろくな本はないだろう。しかし、何もないよりはマシだ。
ワレスは一階へおりてみようと考えた。
そろりとドアをあけたとき、闇のむこうにロウソクの炎がゆれた。
ワレスたちの寝室は、西ろうかの北側。
炎が見えたのは、吹きぬけをはさんだ、回廊の真向かいだ。つまり、東ろうかのブロンテの部屋の前。
小さな明かりのなかに、宿のあるじの姿が見えた。向こうもワレスに気づいて、かるく頭をさげる。
ワレスが階段のある北ろうかへ歩いていくと、ちょうどそこで、あるじと出会った。
「お客さま。どうかなさいましたか?」
「寝られなくてな。本を借りようと思ったんだ。灯をくれないか?」
「私はもう休みますので、これを使ってください」
あるじは自分の手にしたロウソクを、燭台ごと手渡してくる。
「ロウソクが足りなければ、各部屋のチェストの引き出しに予備がありますから」
「ありがとう」
あるじは何か言いかけた。が、途中で気が変わったようだ。ひらきかけた口をとじ、あらためて言いなおした。
「では、おやすみなさい」
「おやすみ」
階段の下へおりたところで、あるじは厨房へ続く細いろうかへ歩いていった。
一人になったワレスは、本棚の前に立った。思ったとおり、大衆むけの娯楽本ばかり。ワレスの興味をひく本はない。
学生時代、貴族の子息たちが、あたりまえに知ってる本や芝居を自分だけ知らなくて、ずいぶん悔しい思いをした。
そのころには、くだらない物語も一般教養と割りきり、手当たりしだいに読んだ。が、学校を卒業してからは、物語本を読んでない。女の相手で芝居を見物するから、話のタネにはそれで充分なのだ。
ほんとは、ワレスは知的好奇心を刺激してくれる本が好きだ。絵入りの博学書や、学術書、旅行記など。
とはいえ、宿屋のサービスで置いている本に、そこまで求めるのはムリだろう。古本屋で、十把ひとからげに買ってこられたのだろうから。
いっそ、つまらない話のほうが眠気をもよおすにはいいかもしれない。通俗的な恋物語を手にとって階段をあがる。
その途中で、二階のドアが、ひとつ、ひらいた。誰かが暗いろうかを歩いてきた。
男だとは遠目にわかった。かよわいほうか、やさぐれか?
目をこらしていると、ロウソクのあわい光のなかに、やさぐれが姿をあらわした。
年は、ワレスよりは上だろう。よく賭場でくだをまいてるような手合いだ。職業はドロボウか恫喝、あるいは娼婦のヒモ。人を殺した経験もあるかもしれない。
その男が自分と同じ人種だと、ワレスは感じとっていた。
だから、なおさら不思議だ。ケンカや殺しが日課のこの男が、不愉快なあの夕食の席で、よく我慢したものだと。こういう男こそ、まっさきに手をだしていそうなものだが。
男は階段でワレスとすれちがうと、なれなれしく肩をたたいて耳打ちした。
「よろしく頼むぜ」
ごきげんで手をふって去っていく。
ワレスはとまどった。
男は小用にでも行くつもりか、厨房へ続く細いろうかへ入っていった。
(なんなんだ。あの男。酔ってるのか?)
首をかしげながら、階段をあがっていく。
すると、今度は階段前のドアがひらいた。かよわいほうの男が顔をのぞかせる。
「すまない。起こしたか」
さっきから自分がバタバタしていたせいかと思った。
病弱そうだとは思っていたが、近くで見ると、青年の白目の部分は、かなり黄色く濁っていた。肝臓が悪いのだ。呼吸器も弱いのだろう。息をするたびに、ぜんそくぎみの音がまじる。
顔立ちも整っているし、服装にも生活のゆとりを感じる。だが、あまり長生きはしそうにない。
「いえ。ずっと起きていました。どうも寝つけなくて」
「おれもだ。本でも読もうと借りてきたところだ。あんたも借りるなら、今のうちだぞ。灯がいるだろう?」
青年はワレスの親切に、困り顔になった。
「すみません。おジャマでしたよね。僕はもう寝ますから」
「ジャマ? 何が?」
「え? 何がって……」
一瞬、青年は信じられないという顔つきで、ワレスを見る。
次の瞬間には、「にいさん。あなたは生き別れになった、僕のにいさんでしょ?」とでも言いだしそうな目になった。
何か、ひじょうに深刻な衝撃に見舞われたようだ。
ワレスの言葉の何がそんなに、彼をおどろかせたんだろうか?
それはわからない。わからないが、彼がその一瞬で、生涯を通しても数度しか経験しないほどの大打撃を受けたという事実だけはわかった。
「なんだか知らないが、悪いことを言ったらしいな」
青年はワレスの顔を凝視して、そのあと、ほのかに笑った。
「いえ、いいんです。それより、あなたのおつれのかたが当たりをひいていましたね。あとで、あの指輪をゆずっていただけませんか? 僕の妹にちょうどいい土産になると思うんです。もちろん、謝礼は払いますから」
「ジェイムズなら、きっとタダでくれる」
「ありがとうございます。では、明朝に」
「ああ」
青年がドアをしめたので、ワレスも自室に帰った。
ジェイムズはあいかわらず、気持ちよさそうに眠ってる。
ワレスは窓ぎわのベッドに身をなげだして、自堕落な姿勢で本を読んだ。
しばらくして、部屋の前を歩いていく、誰かの足音を聞いた。ヤクザ風の男が帰ってきたのかもしれない。
気にも止めず、ページをくる。
ありがたくも、大時代なセリフで恋愛活劇をくりひろげる男女は、ちんぷな表現で眠気をあたえてくれた。
ロウソクも短くなり、ほどなく消える。
ワレスはウトウトした。
眠りのなかで、何度も足音を聞いた気がしたが、それが何時ごろだったか……。
ワレスにはわからない。
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