亡き王女のための夜光祭

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 そう口にするや否や、彼の周囲の空気がぴんと張り詰めた。  元々薄ら寒い森の気温が数段下がったかのようで、夜空さえ覆い隠す程の大木達が身震いするようにざわめく。  男はフードを脱ぐと左手を掲げ、森の奥の闇を真っ直ぐ指差した。  その指の先には、肉眼ではもはや見ることの出来ない怪物の背が確かに在る。  当てずっぽうではない。  男には“視えている”のだから。  男は指先を微塵も動かさないまま、半身になるように右脚を一歩引く。  その“構え”とそして指の先を見つめる鋭い眼差しは、ちょうど戦場で敵の騎士に狙いを定める熟練の弓兵を思わせた。  勿論、男の手に弓は無い。  彼の武装は右肩から柄が覗くように背負われたロングソードのみである。  しかし最後に彼が“矢をつがえるように”右の拳を胸に当て、“引き絞るように”その拳を真横に引いた時、男の目の前の空間に、まるで空気が凝固したかのように一本の矢が突然現れた。 『へぇー』  彼の肩に乗る妖精のリンクルが物珍しげに声を上げる。  妖精の反応も当然。  普段、彼らが戯れる森のエルフ達が狩猟で扱う矢とは、その形状が全く異なる。  矢尻は槍の穂先と同様に長く鋭く、先端の形状は捕鯨漁師の使う“銛”のそれに似ていた。 「これは切断に着目した東方由来の鎧断ちの戦弓。リンクル、離れてろ。破魔(モンスタースレイヤー)の矢だ」 『ヒェッ……』  男の注意に、妖精はそそくさと彼のローブのフードに隠れる。  長い付き合い故の、阿吽の呼吸だ。  最も安全な場所に身を隠したリンクルの『い、いいよー!』の声を待ち、男は怪物に真っ直ぐ向けられていた左手の指をおもむろに天高く掲げ、謡うように、詠唱した。  月を射落とす、神話の猟師のように。 「【対神誘導弾、撃ち方始め(Harpoon Launch)!】」  あまりに呆気ない詠唱の終わりと同時に、男は右の拳の握りを解く。  通常の魔術師であるなら火をやっと起こせるかどうかという程度の、たった二節の魔術の発動は、しかし黒の森全てを激震させる程の余波を生み出した。  雷鳴のような轟音と共に、彼の胸の前に浮遊していた矢が弾かれたように天空へと打ち上がる。  込められた魔力によって、チカ、チカと点滅しながらあっという間に彼の視野の外へと飛び去った矢を見送って、男は怪物の逃げた先へとゆっくり歩み始めた。
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