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「高屋さん」
声をかけられて、はっとした。
ぼんやりと入り口の扉に向けていた視線を切って、高屋直之は、目の前のスツールに腰掛ける少女に向き直った。
「ごめん、お客様かと思って」
念のためもう一度、直之は入り口の扉と、ガラス窓の向こうを伺ってみたが、誰かが入ってくるような気配はなかった。
「すみません、お仕事、邪魔してますよね」
少女がすまなそうに眉尻を下げる。
「女の子を悲しませちゃァいかんよ」
「世の中には仕事より大切なことだってある」
奥側のカウンター席に並んで腰掛けていた壮年の男性二人が、もったいぶって頷いた。年相応に育った太鼓腹も豊かに揺れた。
「そいつは困るな」
向かいで食器を磨いていたマスターが、しかめつらしい顔をして言う。
混じりけのない白髪をオールバックにまとめて、白いシャツに黒のベストとスラックスを着こなす長身痩躯の立ち姿は、東京都渋谷区の一等地に店を構えて三十余年も守り続けてきた貫禄にふさわしいと、常連たちの間でも評判だ。ただし、黙っていれば、という注釈がつく。
「だから、お嬢ちゃんはおじさんと話そう」
深みのある相貌をだらしなく崩して、カウンターから身を乗り出す。
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