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汐原の声も、土をかぶせる音も、もう聞こえなかった。
浅葱が人身御供となった桶の中に、村人たちが身削を行った桶の中に、美濃部滋吉がバラバラにされた桶の中に……、私は閉じ込められている。
「……ひ」
成すすべ無く、頭を抱えたまま桶の隅に身を寄せる。この密封された空間で、私はただ息を殺して震えていることしか出来なかった。
それまで真っ暗だった視界の先に、仄かに青白い光が浮かび上がっていく。それは蔵の中で見た、桶に纏わりつくように光っていたものと同じ灯火だった。
「う……あ」
閉塞された桶の中で、私は身を強張らせる。
息苦しさとともに、むせ返るような血の臭いが立ち込めていく。見渡すと、いつの間にか腰のあたりまでが、どす黒い液体で満たされていた。手でその液体をすくうと、ぬるりとした感触が指を伝う。
「血……」
指の間には、長い髪の毛と溶け掛けた肉片がこびり付いていた。
「う、うわああああっ!」
桶の縁に貼り付くように体を押し付けるが、その間にも桶の中は次第に血肉で満たされていく。胸まで血の海に浸かった私は、全身を鮮血に染めたまま、唸りとも叫びともとれない声を上げる。
その時、青白い光に照らされた血の水面から、ただ静かに、音もなく――、
腐りかけた皮膚と赤黒い肉片を垂れ下げた一本の腕が、浮かび上がってくる。
「う……」
そして真っ赤な血を滴らせたその腕は、まるで獲物を探すかのように、息を飲む私の方へとゆっくりと伸びてくる。
「グ……ググ……ググ」
桶の中に響くのは、蔵の中で聞いたのと同じ呻き声だった。
それはきっと……死を間際にした浅葱が、最後に発した声。
誰も知れぬ池の底、一人で狭い桶の中に閉じ込められた彼女は、ひたすら村人たちへの呪いの言葉を唱え続け、その身を朽ち果てさせていった。限りなく続く漆黒の闇の中、次第に痩せ衰え溶け出していく自分の血肉を感じながら。
彼女は……今、私の目の前に居る。
「浅……葱」
息もできないほどの腐臭と血の匂いにまみれたまま――、
青白い灯火に照らされたその指が、
ただ静かに、私の首に触れる。
(終)
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