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では私があの家で会ったのは……一体誰だったというのか? 病気で臥しているという滋吉の姿を見ることはなかったが、私は確かに美濃部灯子と出会ったのだ。
長い黒髪、端整な顔立ち。透き通るような肌。どこか冷ややかな口調で『身削』のことを告げた、あの声が今でも耳の奥に残っているのに。
じっとりと冷たい汗が、再び背中を伝っていく。
「じゃあ……私は……」
言葉を詰まらせる私の動揺など知る由もなく、汐原はおもむろに眼鏡を掛け直す。
「だからあの家は、今はもう空き家になってます。と言っても、凄惨な殺人事件のあった場所なんて、村の連中は誰も近付きたがりませんけどね」
「でも……私は、実際に会ったんです。灯子に」
「美濃部灯子に、ですか? まさか。さっき言ったでしょ、もう彼女は死んでいるって」
飽きれたように言う汐原の腕を、私は咄嗟に掴む。
「間違いないんです! 信じて下さい。私は彼女から聞いたんです。村の人柱になった『浅葱』のことや、そして埋められたあの桶のことも。あと、『身削』って村の風習の話も……」
「みそぎ? ……ああ、『身削』ってやつですか」
汐原は少し表情を曇らせると、宥めるように私の手を静かに叩く。
「古臭い習わしですよ。今はそんな祟りなんて、誰も信じちゃいません」
「で、でも……私は確かに」
「まあ、もう少しベッドに横になって落ち着いた方が良い。どうせもう夜中ですから、今日はこのまま休んで、明日の朝になれば全ておしまいです」
汐原はベッドの下に落ちた毛布を拾い上げると、私の体に掛け直す。
「そんな話を聞いて、寝てる気分じゃ……」
「まあまあ。でも『身削』の話をあなたが知っているとは、意外でした。実はこの村の名前……神指村っていうのは明治時代になって改名されたものでしてね。元々は『神刺』って名前だったんですよ。神を刺す、なんて罰当たりだと思いませんか? 一説に拠ると、『神去りし』なんて由来もあるくらいで」
「神……刺」
「ええ。この場合の『神』とは、人柱になった浅葱のことを指すんでしょうね。なにせ神仏への生贄となった者は、神が憑依した存在に昇華すると言われていますから」
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